6月の新刊

06/06
改訂版デビルマン 3/永井豪とダイナミックプロ
講談社/\900

06/12
煙突の上にハイヒール/小川一水
光文社文庫

06/20
ボクを包む月の光「ぼく地球」次世代編 11/日渡 早紀
白泉社/\420

06/22
ふたりの距離の概算/米澤穂信
角川文庫/\630

06/22
ラブコメ今昔/有川浩
角川文庫/\620

06/23
ビブリア古書堂の事件手帖 3 ~栞子さんと消えない絆~/三上延
メディアワークス文庫/\620

06/26
雲の果て おいしいコーヒーのいれ方 Second Season5/村山由佳
集英社文庫

06/26
彼方の声 おいしいコーヒーのいれ方 Second Season6/村山由佳
集英社文庫

06/26
宵山万華鏡/森見登美彦
集英社文庫

06/29
新・鉄子の旅 4/ほあしかのこ
小学館/\630

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「天冥の標VI 宿怨 Part 1」

415031067X天冥の標6 宿怨 PART1 (ハヤカワ文庫 JA オ 6-17)
小川一水
早川書房 2012-05-10

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ここまで各時代の様相をその時代の視点から描いてきた感のあるシリーズですが、「VI」では歴史的な経緯をふまえた上で、現時点で最も先の時代を描いている「I」へ向けての大きな流れが見えてきた印象です。《救世群》や《酸素いらず》の変遷と、ミスチフとダターの対立など、様々な要素を背負った壮大な物語になっています。
その一方で、アイネイア・セアキとイサリ・ヤヒロ(救世群内継嗣)という二人の主要人物の視点を軸に、この時代の人々が過去に起きたことや現在起きていること、あるいは自分と関わる人物に対して、どのように理解し、どんな感情を抱ているのかが描かれているため、第三者的な冷めた目で歴史を俯瞰するのではなく、深い共感を持った上で物語を味わうことができたような気がします。
新刊が出る度にこれまでのシリーズを読んで確認したくなることがたくさんあるのですが、今回から巻末についた年表と人物・用語集が、その欲求を多少なりとも鎮めてくれるので、ありがたいです。

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ソーシャルリーディング

Twitterでソーシャルリーディングに関するツイートを見かけたのでコメントをつけさせて頂いたのですが140字ではうまく説明できない部分があるので、ブログ記事にしてみました。

僕は最初「ソーシャルリーディング」を「ネット上で感想を共有するシステム」という意味にとってコメントをつけたのですが、元の発言者の方が意図したのは、電子書籍媒体などである部分に対してどう感じたかをコメントしていくタイプの狭義のソーシャルリーディングだったようです。
そのタイプのソーシャルリーディングについては、2010年の秋に「週刊ダイヤモンド」で電子書籍の特集が組まれた時の読んでいるのですが、当時のブログ記事を見てもわかるように、個人的にはあまり関心がありませんでした。(今、記事を読み返そうと思って雑誌を探したのですが発見できず)
当時はTwitterも初めておらず、アニメの実況も経験したことがありませんでしたので、当時とはまた違った感想もありますので、あらためてまとめてみたいと思います。

元の発言者の方の意図は、「ソーシャルリーディングの場はまだまだ発展途上である」「それはソーシャルリーディングに参加している人が深く読む読者層ではないからだ」「それはソーシャルリーディングで付けられているコメントが非常に短く感想を適切に言語化していないことから察せられる」ということなのだと考えます。そして「ソーシャルリーディングのプラットフォームが整い、読書のスキルが高い層が集まれば、有効なソーシャルリーディングが行われるようになるだろう」とお考えのようです。(もし、僕の読んだ意味そのものが違うのであればスミマセン。その場合は元発言の方への意見にはならないかもしれませんが、僕のソーシャルリーディングへの評価を述べるという意味合いで読んで頂ければと思います)

しかし、僕は、ソーシャルリーディングが普及しないのは、プラットフォームの問題ではなく、ソーシャルリーディングそのものが抱える限界に理由があると思っています。

わかりやすくするために、先ほどの書いたアニメの実況と比較しながら話を進めてみたいと思います。「実況」というのも、おそらくネット用語だと思いますので一応説明しておくと、アニメのテレビ放送などを見ながら、見ている者同士がTwitterで感想を述べ合うことです。アニメ以外でも、何かのイベントのネット中継でも同様の行動が見られます。僕自身の経験でいうと「はさぶさ」の大気圏突入の時(僕はまだTwitterを初めていませんでしたので、読んでいただけですが)やスペースシャトル「アトランティス」のラストフライトなどでしょうか。
ここで大切なのは「共時性」です。皆が同じ時間に同じものを見ているという気持ちが、コメントを書くモチベーションの大きな部分を占めています。「天空の城ラピュタ」のテレビ放送があった時、パズーとシータが唱える「バルス」という呪文に合わせて視聴者が一斉にツイートしたせいで、Twitterのサーバーがダウンしたという有名な話があります。それは、いかに「共時性」が意識されているかの一つの象徴です。
しかし「読書」という行為には、この共時性はありません。「読み聞かせ」であればそうではないかもしれませんが、一般に「読書」という行為は個人が行うものであり、むしろ映画・演劇などの共時性を前提とするものとの差違を意識している部分もあって「個人のペースで享受できる」という部分がその長所とされている部分があります。その読書の特性を考えると、文字を追う中で逐次的にコメントを付けるという行動が引き起こされにくいと言えましょう。

さらに、もう一つ。
実況がさかんに行われるアニメにおいても、分析的に感想が語られることはほとんどありません。先ほどの「バルス」がこれもまた象徴的ですが、感想どころか、カッコイイと思うセリフ、行動、さらには登場人物の名前をつぶやいておしまいということも多いのです。これはもちろん次々と先に進んでしまう時間的な制約もあるのでしょうが、僕はもう一つ理由があると思っています。
それは「部分の評価は、他の部分との関連もしくは全体の中の位置づけで決まる」ということです。
物語のある部分に感動したとして、それを分析的に語ろうとすると、当然、物語の他の部分も参照しなければなりません。では、その場合、どちらの部分に感想を書いたらよいでしょうか。
また、物語を読み解く技術として、いわゆる「行間を読む」というものがあります。直接的には描写されていない内容を、他の要素をふまえて「こうではないかと想像する」わけですが、これもどこにコメントを書くのか迷うケースです。
やはり、作品についてある程度以上のことを述べようとすれば、作品の複数の場面を参照せざるえないわけで、その意味でも逐語的にコメントとつけるのには無理があると思っています。

また、ある情報をどう評価するかには、評価する人物の価値観が大きく関わります。同じ人物が作品を語る場合であっても、何を軸にして語るかによっても個々の部分をどう評価し、どう関連づけるかは異なってくると思います。それらの前提を説明するということになると、今度はコメントの量が膨大になり、一覧性に問題が出てきます。


さらに身も蓋もない話をしますと、僕個人の経験では、多くの人が集まって意見の是非を検討するような場面では、「論点そのもの」が一致せずに、お互いの言いたい事がすれ違いのまま水かけ論になっておしまいというケースがほとんどです。ですから、書評サイトなどでも(もしくは映画のレビューや写真に対する評価でも同様)違った意見の人が議論して双方が納得できるような結論に昇華されるという幸運なケースはほとんどなく、そういうことがわかっているユーザーはあえて議論は避け、自分の意見と近い意見を見つけて喜びを感じる、という使い方に徹しているように見受けられます。僕は割と、色んなことを面白いと思えるタイプなので「~という意見は違うと思う」とはあまり思わないのですがね。あ、でも、逆に「~はつまらない」という意見には、時々我慢できなくて口だししてしまうことはあるかもしれません(笑)

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「ココロ・ファインダ」相沢沙呼

4334928218ココロ・ファインダ
相沢 沙呼
光文社 2012-04-18

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この本の表紙の写真は、人気写真ブログ「シャッター・ガール」の大村祐里子さん(サイトはこちら)。僕もよくブログを拝見しており、最近ではTwitterでフォローなんぞもさせて頂いております。
相沢沙呼さんは、「青春ミステリ」の書き手として存在感を増している新進の作家さんですが、本棚スペースの危機にともなうハードカバー規制のために文庫本待ちの状態でありました。
大村さんのブログで表紙の写真のことを知り、今回は特別にハードカバー規制解除になったのでした。

写真を撮る人を扱った物語としては、市川拓司さんの「恋愛寫眞・もう一つの物語」などがあるわけですが、小説でも映画でも、写真というのは、撮影対象への思い入れの深さを示すための道具、という位置づけが大きいような気がしていますし、実際、写真を撮る側としても、そういう意識が強いことも確かです。

「ココロ・ファインダ」は、そういう写真の描き方とは少し視点が異なっており、写真を撮る側の自意識を掘り下げた内容になっています。
四つの章から成り立つ連作集ですが、それぞれ四人の写真部員の視点から語られています。
この四人は、お互いにお互いのことを認めたり、反発したりしているのですが、自分で自分のことをどう捉えているかと、他の人がその人のことをどう捉えているかが、微妙に違っていて、それが自分のコンプレックスになっていたり、逆に、その人を支える力になっていたりするのです。

個人的には、最終話の「ペンタプリズム・コントラスト」が一番好きです。
僕が写真を撮る時に、シズほどの情熱を持っているかはともかく、自分の思い描く写真と実際に撮れた写真のギャップに落ちこんでみたり、写真を見てくれる側に自分の思いが伝えきれないもどかしさを感じてみたり、という心情はよくわかります。写真だけでなく、この文章もふくめて、自分が好きな小説や漫画、映画の魅力を伝えたくても、それが伝えきれない時なども…。
単に自分の力不足というだけでなく、悪意を持って彼女や彼女の愛する友人達を傷つけようとする存在もあります。そういった悪意に対するやり場のない怒りが切ないほど文章から伝わってきました。
そんな彼女の苛立ちを、彼女の写真を受け入れてくれる他の三人の存在が救ってくれます。そして、その三人がシズの写真に対して、どんな気持ちを抱いているか、前の三話でしっかりと描かれているからこそ、単なる内輪受けや自己満足では終わらない説得力があるのだと思います。

第一話は「コンプレックス・フィルタ」。僕はは男なので顔の良し悪し、ましてや肌の綺麗さの点で写真うつりを気にするわけではありませんが、自分の映った写真を見ると、その表情のぎこちなさにがっくりくることはあります。人から見られることに自意識過剰になりがちなのは同じかな…と。だから、撮るのは好きですけれども、撮られるのは苦手です。自分が撮る時には、人の表情のいい部分を捉えたいないな、とは思ってますが、人物写真は、照れが入ってしまう部分があって、うまく写せないことも多いのです。だから、この話のラストでシズが撮ってる写真、ミラ子が自分で自分の良さを発見できるような写真を撮れるのは、うらやましいな、と思います。

第二話は「ピンホール・キャッチ」。秋穂の周りに合わせて明るくふるまうことのできない性格には、すごく共感を覚えます。僕の若い頃、バブル華やかなりし頃は、「明るい」「暗い」なんて二元論が流行っていて「暗さ」は馬鹿にされがちでしたが、最近でも「ノリ」とか「空気」なんて言葉で、同じような傾向が見られるのでしょうか。ピンホールカメラの、長い時間かけて光を取り込む感じが好きで、二台ほど持ってはいるのですが、うまく使いこなせた試しがありません。この間も、巻き上げのやり方を間違えて1本ダメにしました。修行を積まなくてはいけませんね。

第三話は「ツインレンズ・パララックス」。第一話ではミラ子から羨ましがられていたカオリだけど、彼女には彼女なりの悩みがあって…という話です。本当の自分と作っている自分の区別は本当に難しい。でも、作っている自分も「そうなりたい」気持ちの現れなので、嘘だと思わなくていいよね…と思わせてくれます。僕も、ネット上の人格は実際の自分と違うし…。二眼レフは個人的にこだわりがあるので、題材になるのは嬉しいですが、テーマ的にはパララックスよりも左右逆像の話でした。「レフレックス・イリュージョン」とか? 作中、二眼レフはアンティークで高いとありましたが、安くてよく写る二眼もありますので、是非みなさまも二眼ワールドへお越し下さい(笑)。

僕は、自分も写真を撮るので、写真を題材にしたこの物語は、自分と重なって感じる部分が多分にありましたが、おそらく、道具立ては違うにしろ、多くの人が青春時代に(もしくはそれをとうに過ぎたとしても)感じる自分自身への不安というものを、とても真摯に描いた物語であるように思います。
もちろん、写真好きの皆さんには、特にお薦めです。

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「暗い夜、星を数えて  3・11被災鉄道からの脱出」

4103319615暗い夜、星を数えて: 3・11被災鉄道からの脱出
彩瀬 まる
新潮社 2012-02-24

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僕がこの本の作者である彩瀬まるさんの名前を知ったのは「文芸あねもね」という同人誌です。「文芸あねもね」は、新潮社の主催する「女による女のためのR-18文学賞」の受賞者有志が、震災への義捐金を集めるために作った電子書籍です(この文章を僕がブログにアップする頃には、新潮文庫から紙の本として出版されていると思いますが)。
「女による女のためのR-18文学賞」といえば、僕の好きな豊島ミホさんが受賞した賞ですが、現在執筆をやめてしまった彼女が久しぶりに作品を発表するとのことで、僕はこの本を読むために、電子書籍端末を購入したと言っても過言ではないくらいです。
で、はっきり言って豊島さん目あてで買った本なのですが、読んでみると、他の作品もかなり面白い。で、面白いなぁと思った作家さんの本を買ってみたり、Twitterでフォローしてみたりしたのですが、その中の一人が彩瀬さんでした。
彩瀬さんは、その時点で出版された本がなく、受賞作「花に眩む」と、この本の第一章となった「川と星」が電子書籍になっているだけでした。
しかし、僕はその「川と星」を読んで、その端正な文章の表現力に魅了されました。ですから、その後のエピソードも加えた文章が一冊の本にまとまることを知って、必ず購入しようと思っていたのでした。

さて、この本を読み終わった時、僕が感じていたのは、胃を締め付けられるような感覚でした。得体のしれない不安感と、焦燥感のようなものが、その中にあったような気がします。頭で情報を受け取って、それに対して理性的な判断を下し、それが感情を動かす、というのではなく、読んだ言葉によって、そこに表現されたものが自分の中に巣食っていく感じ。映像や写真で見る被災地の様子は衝撃的だけれども、それとは違う何かを与えられたような気がします。

小説ではなくドキュメンタリーであるからには、そこで起きた出来事や状況を描くというのが本来の姿なのかもしれませんが、僕が「川と星」や「暗い夜、星を数えて」に心動かされたのは、おそらくそういう部分ではなく、そこにいた人々(筆者やその周辺にいた人々)の心の動きが描かれているからなのだろうと思います。直接心理描写をしているところはもちろん、出来事や状況を描くにしても、言葉の選び方や語り方で、見ている側の感情が透けて見える感じがするのです。
教科書的に言えば、災害時というのは感情的にならず、冷静に状況を判断するのが望ましいのは当然のことですが、やはりそこには容易にコントロールすることのできない人間的な感情が、どうしても蠢いてしまうということなのです。
僕は、震災に関しては、どちらかというと社会のシステム的な側面から語ろうとしていた感があるので、自分の見落としていた側面をつきつけられたような気がして、余計に印象深かったのだと思います。

内容面だけではなく、それを描き出す文章にも、心惹かれるものがあります。
彩瀬さんの文章は、センテンスが短めです。修飾語がたくさん重ねられた重厚な文章ではなく、一見何気なく書かれたかのような印象を与える文章です。しかし、それでいて内容がよく伝わってくるのですから、言葉の選び方がよいのでしょう。短い文章だけにテンポ良く読み進められるのですが、それだけに、ところどころにある畳みかけるような並列やリフレインが凄く心に響くんですよね。

そして最後にもう一つ。これは読む人の立場によって色々と変わってくるでしょうが、僕の個人的な事情で良かったと思う点として、旅行者の立場として描かれていることです。
おそらく、地元の人たちからして見れば、ここに書かれている状況や心情はまだまだ甘い点があるかもしれません。ただ、そうだろうなと考えるある種の罪悪感も含めて、そういう立場の人が書いたからこそ共感できる部分が、大きいような気もしています。

僕は、震災のルポをこれ以外に読んでいるわけではないので比較論はできませんが、おそらく、この本を読み返す度に、あの日、家族の無事を祈りながら歩いた柏尾川沿いの暗い遊歩道の景色と、それと同じような祈りや、もっと深い絶望を抱えた人たちのいたことを思い出すだろうなと思います。

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「マホロミ」冬目景

4091843360マホロミ 1 (ビッグ コミックス〔スペシャル〕)
冬目 景
小学館 2012-01-30

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建物の記憶が見えるようになってしまった大学生(土神)が、同じように建物の記憶が見える女性(真百合)と共に、かつての建物の主の思いを読み解いていく物語。
主人公が建築家の学生であり、幼なじみの女の子が建築部品マニアであったりするので、建物に関する蘊蓄が日常会話的であり、押しつけがましくない雰囲気です。
また、建築士であった祖父の残した建物に住むところから始まっているために、家に住む人の想いを推し量ることに対する指向性が、主人公の中に(ということは、それを読む読者の側にも)出来上がっていることも、自然に物語世界に入れる下地になっているのではないかと感じました。
横浜が舞台になっていますが、六角橋とか大倉山とか、海側ではない地域がメインで、紋切り型の横浜のイメージになってしまっていない点も、個人的にはお気に入りです。象の鼻パークあたりの話も出てくるのですが、すでにその建物からは海が見えずに、街の人たちも実は海が見えてないことに慣れてしまっている雰囲気で描いている辺り、リアルな感覚なのではないかと思います。

僕が横浜で写真を撮るようになったのは、ここ数年のことで、しかも明治以降の建築物に思い入れがあるわけではありません。むしろ、洋館に関しては「日本の風土と合わないじゃん」という気持ちがあるので、むしろ横浜の無理矢理西洋風にしているような街並みには、違和感を覚えることも多いのです。
でも、古書や中古カメラなど、古い物をいつまでも存在させ続けることに全く郷愁を感じないわけでもないので、建物に対する思い入れも理解できないではありません。この漫画の中にも「建物は使ってこそだと思ってるからね」というセリフがあるのですが、僕も古いカメラを骨董扱いするのは嫌いで、現役で使いまくってます。

冬目景さんの漫画は「ハツカネズミの時間」で初めて読んで中途半端なSF感に手応えを感じなかったのですが、「ももんち」で良い感触をつかみ「羊の歌」「イエスタディをうたって」でかなり好きになりました。
この作品も「建物の記憶を読み取る」というのがサイコメトリー的にSFっぽく書かれているのではなく、建物に心があるかのように擬人的に描かれているのが、冬目さんの絵柄やストーリーの雰囲気に合っているように思えます。
続きが楽しみな作品ですが、「イエスタディをうたって」の続きもよろしくお願いしますよ…。

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ナチュラ倶楽部写真展「大全集」

ネット上のお友達が参加しているので、写真展を見に行きました。
(ナチュラ倶楽部のブログはこちら

フジフイルムのコンパクトカメラ「ナチュラ」で撮った写真を全紙サイズで展示する写真展です。
ナチュラのコンセプトから「日常スナップ系」の作品が多いのだろうなぁというイメージがあったのですが、展示されていた作品の幅は思った以上に広く、また「ナチュラで撮った」ということを除いても、見応えのある写真が多かったように思います。

全紙に伸ばしてしまうと、小さいプリントではわからなかったいろいろなアラ(ピントのズレ、手ブレや被写体ブレ、プリント時の露出補正による色ズレ、レンズの描写破綻など)が見えてしまいます。そういう部分が皆無だったわけではないのですが、コンパクトカメラで撮ったとは思えないような描写の写真が思った以上に多かったです。
というわけで、写真を見ながら最初に思ったのは「ナチュラでもここまで撮れるんだ!」ということなのですが、果たしてそういう感想でいいのかな、という気持ちもありました。その一つは「ナチュラでも」という言い方が、すでにナチュラを格下と見なしているという点です。さらに「ナチュラでもここまで撮れるんだ」という主張すること自体が、そういう意識から来るもので、そこを展示する側がどう捉えているのかな、という気持ちもありました。さらに「ナチュラでも撮れる」ということは、「ナチュラ以外の機材でも撮れる」ということですし、むしろコントロールのきかない(絞りやシャッタースピード、ピント位置などがオートで決まる)ナチュラで撮るのは難しいわけです。そうなると、意識してカメラを持ち歩くような場面(それなりの機材が用意できる場面)では、ナチュラの意義は薄れてしまうな、という考えがあったのです。だから、自分だったら、「ナチュラでもこれだけ撮れるのならナチュラを買おう」ではなく、頑張ってコントロールのきく機材を持っていこうと考えるだろうなと思いました。だから、先ほど書いた「ナチュラだから日常系スナップ」というのは、ナチュラではそれしか撮れないだろうということではなく「ナチュラだから撮れる」ということを強調するなら、その方向が一番説得力があるだろう、という意味なのです。

ナチュラ倶楽部の主催者の方がいらしたので、その辺りの疑問を直接伝えてみたのですが、お話をした感じでは、「ナチュラでも撮れる」というコンセプトの問題点はふまえた上で、「だから」ではなく「でも」の方に意識を置いた展示だという印象でした。ナチュラは確かに初心者向けという位置づけのカメラで、そこからフィルムカメラに入る人が非常に多いけれども、何年かすると「卒業」してしまう人が多くて残念だと。気軽にシャッターが押せ、そこそこの実力があり、失敗の少ないカメラなので、他の機材と一緒に持ち歩いても使い分けができる、というお話でした。

僕の機材に関していうと、サブカメラ的な位置にあるのはコンパクトデジカメです。フィルムカメラだといつ現像に出せるかわからないし、ネガの整理も大変ですが、コンパクトデジカメなら数枚しか撮らなくてもすぐに画像が手に入ります。でも、コンパクトデジカメの撮影素子の大きさだと、背景をぼかして立体感を出す、あるいは中心となる被写体を目立たせるといったテクニックを使うのが難しくなります。ナチュラは35mm版のカメラですから、そういった描写も可能です。フォーマットとしては、デジカメだとフラッグシップ機になってしまうフルサイズ機と同等なのです。

「ナチュラだから撮れる写真」「ナチュラでも撮れる写真」「35mmフォーマットだから撮れる写真」「フィルムだから撮れる写真」色々なことを考えさせられた写真展でした。
僕は機材を語るのが好きなので、機材とそれに付随する撮影の幅についてばかり書いてしまいましたが、冒頭に書いたように、内容的にも見応えのある写真が多いです。この場合の見応えというのは、写した人が何を思って写真を撮ったか伝わる写真ということ。それに全紙で見る写真には、やはり迫力があります。気持ちの伝わる写真を堪能したい方に、ぜひオススメです。

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2011年を振り返って

2011年も、いよいよあと三時間ほどを残すばかりとなってきました。

身内に大病をした人がいたり、職場でごたごたがあったり、色々あった一年ですが、
個人的なことはさておき、今年あったできごとを振り返ってみたいと思います。

まずは、なんといっても東日本大震災があったこと。
当日は鎌倉にいて、歩いて自宅まで戻った話は、このブログでも書きましたが、
計画停電にともなうゴタゴタで、一時は会社がつぶれるかも…という想像まで頭がよぎりました。
原発の今後や防災など、日本の政治や社会のあり方についても、いろいろ考えさせられました。
原発事故の収束や被災地の復興もふくめて、この後何十年もかけて解決していくべき課題を残された気持ちです。

二つ目は、Twitterを始めたこと。
これまでもずっとネット生活をしてきた僕にとって、Twitterはツールの一つでしかないのですが、
それでも、非常に大きなインパクトがあったと思います。
情報発信という面では、ブログよりも気軽にかけることから、発信量が格段に増えたことが一つ。
それから、これまでバラバラに使用していたツールが、Twitterによって一つにまとまった感があること。
情報収集という面では、これまで作品を通してつながっていた作家さんや漫画家さんの生の声を聞けるようになったことが大きいですね。
羽海野チカさんにコメントを頂いたことや、とり・みきさんにRTして頂いたことなど、とても感激しました。
そして、現在進行形のできごと「実況」や、ハッシュタグを使用した「座談会」など、同じ趣味の人たちの集まりを、ネット上でリアルタイムで感じることができました。
特に印象に残っているのは、「GOSIC」「天空の城ラピュタ」といったアニメの「実況」や、スペースシャトル「アトランチス」のラストフライトや皆既月食の時の盛り上がり、「ハチミツとクローバー」の座談会といったところでしょうか。

三つ目は、電子書籍リーダーを手に入れたこと。
もちろん、使用頻度としては、紙の本に比べたらまだまだですが、
本をどのように保存し、整理するかという点で、革命的な一歩になるかもしれません。

それでは、皆様、今年も一年おつきあいいただき、ありがとうございました。
来年も、よろしくお願いいたします。

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電子書籍のメリットは?

電子書籍について「違法コピーが増える可能性がある」というデメリットに対して、有効なメリットが見いだせていない。だから、作家の方も出版社も電子書籍化に積極的になれない、という図式があるのではないかと思います。

一つ前の記事にも書いたように、物理的な収納場所が少なくて済む、というのは大きなメリットだと思います。
電子書籍の利点に「あまり本を読まない層を取り込む」ということがよく言われます。実際、携帯小説などの流行を見ると、そういう部分もあるとは思いますが、電子書籍を「それだけの存在」と考えることはないと思います。
実はよく読む層こそ、電子書籍化のメリットがあるのではないでしょうか。
今回、電子書籍に関する記事を書こうと思って、ネット上の記事をいくつかあたった時に思い出したのですが、村上龍さんが電子書籍の会社を設立したことが話題になった時がありました。その時に、村上さんは「電子書籍ならではの特徴」としてマルチメディア化をあげられていました。つまり、本をそのままの形で電子化しても魅力がないから、新しい付加価値をつけなければならないと考えたのでしょうが、僕個人の感覚としては、普通の書籍を普通の形で電子化するだけで、大きなメリットがある、と思っています。

僕も、本の置き場がなくなるとブックオフに売りに行きますし、試しに読んでみたいと思う漫画を漫画喫茶で読むこともあります。もし、電子書籍が充実して、物理的スペースの制約がなくなったら、こういうことはしないと思います。
ブックオフに本を売りに行く人の多くは「売った代金が欲しい」(だって買い取り価格は異様に安いですもの)のではなく「家の中を片付けたい」ではないでしょうか。電子書籍は普及すれば、新古書店への本の供給量も減るでしょう。
海賊版の話をふくめて、著作権保護機能つきの電子書籍を充実させることで「安く本を読まれてしまう機会」を減らすことができるのではないかと思うのです。

新古書店の話でも、電子書籍化の話でもつきまとう問題に、出版不況という背景があると思います。
もうからないから利益を確保しようと規制を強める、という流れは、歴史上何度も繰り返されてきたものです。
でも、個人的な感覚として、本屋さんにいる人の数が減っているとは思えません。むしろ、大型の書店には、以前より人があふれている感じさえもします。
本の出版点数が増えると同時に読者層の細分化が進んで、一点あたり(もしくは出版社あたりとか一作家あたりとか)の販売数が減った、というのは原因かもしれません。
あるいは、出版点数が多すぎて、どんな本が出版されているのか、読者に情報が伝わりにくい。僕は、割とネットで新刊情報を見て、どんな本がいつ販売されているのかチェックしているつもりですが、それでも本屋さんで初めて刊行に気づく本というのがあります。「本屋で気づくならいいじゃないか」と思われるかもしれませんが、僕は1週間に最低4回は本屋に入るような人間です。どんどん新刊が出て、気づいた時には、すでにその本は本屋さんに並んでない(もしくは目立たない所に追いやられてしまう)という場合は、一般の読者層の場合には多いのではないかと思うのです。
そもそも、よほど大きな書店でもない限り、少し前の本は置いてありません。だから、僕が気に入った作家さんを発掘して、その著作を遡って読む時には、アマゾンやbk1といったネット書店を利用しています。そして、ひどい場合には、過去の著作が絶版になっていて、ネット上の古書店で検索して購入、ということも少なからずあるのです。
もちろん、出版不況であるからこその出版点数の増加なのでしょうが、その自転車操業の循環をどこかで止めないと、幸せな状況はこないのではないかな、と思います。
「在庫」という物理的な制約がなく、「絶版」を減らし「復刊」を容易にする電子書籍の存在は、そこに風穴を開けうる存在になると思うのですが、どうでしょう?


■以前書いた電子書籍に関する記事「本にまつわる雑誌記事」

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スキャン代行業者に対する提訴について

12月20日、スキャン代行業者2社を著作権侵害だとして一部事業の差し止めを求める提訴が東京地方裁判所に提起されました。原告は、浅田次郎氏・大沢在昌氏・永井豪氏・林真理子氏・東野圭吾氏・弘兼憲史氏・武論尊氏。この件がきっかけで、Twitterのタイムライン上でも、電子書籍に関するさまざまな意見が目に入るようになりました。僕自身も、何件かつぶやいているのですが、この件に関しては、ブログの記事という形でまとめておきたいと考え、この文章を書いています。

まず、僕自身の電子書籍の利用状況を簡単に説明しておきます。
今年の9月にソニーの「Reader」という電子書籍端末を購入し、実際に何冊かはこの機器を使用して本を読んでいます。しかし、紙媒体の本と電子書籍を比べると、圧倒的に(きちんと数えてはいませんが、9対1くらいの割合で)紙媒体の本を購入しています。
そもそも、僕が電子書籍の使用にふみきった理由は二つあります。
一つは、自宅の本の置き場がかなり苦しいこと。現状で苦しいのですから、僕があと40年生きるとして(現在45歳)、この倍の本を購入することになったら、とても収納しきれるものではない、という焦燥感があります。実際、興味があって「購入しようかな」と思う本でも、「置き場を考えるとやめよう」と思う本がかなりあります。せっかく購入した本でも、置き場がないために定期的にブックオフに売りにいかなければならない状況です。
もう一つは、電子書籍でしか出版されない本の存在です。個人出版の本ではこの手の本が非常に多いのですが、僕が読みたかったのはこの種の本ではなく、豊島ミホさんらが出版した「文芸あねもね」という本です。
「本の置き場がない」という理由で電子書籍端末を購入したにも関わらす、相変わらず紙の本を買い続けている理由は「電子書籍版が売っていない」ということです。
電子書籍化に反対する方(主に読者層の方で)の意見に、「やっぱり本は紙で読まないと」「装丁も含めての美しさがあるのが本の価値の一つ」というのがあるのですが、僕も全くその通りだと思います。文庫本で読んで気に入った本のハードカバーを買い足したり、好きな漫画の「完全版」が出ればそちらも購入したりもしているのです。
が、その一方で、物理的な許容量には限界がありますから、「もう今ある本だけを愛して、それを再読するだけで生きていく」(ということができるくらいには蔵書があるつもり)という道を選ぶか、「電子書籍を購入して物理的スペースを節約する」という道を選ぶしかないのです。紙の本が好きだから、紙の本だけを購入して生きていくという道は、少なくとも僕には選べないのです。
僕の家は、残念ながら子どもには恵まれなかったので、妻と二人暮らしです。二人とも本好きなので、本を置くために住環境にはかなりぜいたくをしています。それでもその状況なのですから、子どもがいらして、配偶者に本への理解がない場合などは、本を置くことのできるスペースというのは、もっともっと少ないはずです。
漫画喫茶や新古書店が人気なのは、もちろん「安く読める」ということもあるのでしょうが、「本の置き場に困らない」ということもあるのではないでしょうか。

スキャン代行業というのは、そんな僕にとって「利用してみたい」と思わせる魅力があるサービスです。
本の置き場には困っているものの、1冊1冊に手間をかけて処理していく時間がない。スキャンしたとしても、それを適切な設定で適切な美しさで実行する技術がない。誰かがそれをやってくれるなら、そんなにありがたいことはない、という発想です。
今のところそれを実行していないのは「これから電子書籍が発展してくれば、スキャンするよりそっちを買う方が、読みやすい本が手に入るに違いない」という気持ちと「せっかく買った本にメスを入れるのは忍びない」という気持ちがあるからなのです。その意味では、今回の浅田次郎さんのコメントは、よくわかります。でも、そうせざるを得ない状況もあるのだということを理解して欲しいのです。

今回問題になったのが「複製権」に関するものだということは理解しました。実はこれまで、僕はその点を理解していなかったので、スキャン代行業をなぜ批難するのか、よく解っていなかったのです。
でも、自分でスキャンするのが合法で、他人に代行してもらうのが違法という根拠がもう一つ納得できないのも本当です。昔、どこかの図書資料館で(割と貴重な本をあつかう場所だったイメージ)、資料を傷める可能性があるので、コピーを取る場合には図書館の職員にページを申請して作業してもらう、という経験をしたことがあります。理屈としては、それと同じですよね。

もちろん、デジタル化することによって「違法コピーが出回りやすくなる」というデメリットがあることは重々承知です。でも、今回問題になっているのは、その点ではなく、「複製権」に関するもののはず。
その点では、僕は東野圭吾さんの発言に、まったく納得がいきません。この二点を明らかに混同している発言だからです。
「電子書籍に対するニーズがあり、それに対して出版業界が対応できていない」という事実は、認めてもらわなければなりません。
「本をスキャンすること=海賊版の作成が目的」という理解をされてしまうのであれば、少なくとも、僕の感じている葛藤は、まったく出版側には届いていないということになります。


参考にした記事
■ebookuser「東野圭吾さんら作家7名がスキャン代行業者2社を提訴――その意図」
■ebookuser「スキャン代行業者提訴で作家7名はかく語りき」
■琥珀色の戯言「本の尊厳をこんなに傷つけられる世の中になるなんて」

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