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ソーシャルリーディング

Twitterでソーシャルリーディングに関するツイートを見かけたのでコメントをつけさせて頂いたのですが140字ではうまく説明できない部分があるので、ブログ記事にしてみました。

僕は最初「ソーシャルリーディング」を「ネット上で感想を共有するシステム」という意味にとってコメントをつけたのですが、元の発言者の方が意図したのは、電子書籍媒体などである部分に対してどう感じたかをコメントしていくタイプの狭義のソーシャルリーディングだったようです。
そのタイプのソーシャルリーディングについては、2010年の秋に「週刊ダイヤモンド」で電子書籍の特集が組まれた時の読んでいるのですが、当時のブログ記事を見てもわかるように、個人的にはあまり関心がありませんでした。(今、記事を読み返そうと思って雑誌を探したのですが発見できず)
当時はTwitterも初めておらず、アニメの実況も経験したことがありませんでしたので、当時とはまた違った感想もありますので、あらためてまとめてみたいと思います。

元の発言者の方の意図は、「ソーシャルリーディングの場はまだまだ発展途上である」「それはソーシャルリーディングに参加している人が深く読む読者層ではないからだ」「それはソーシャルリーディングで付けられているコメントが非常に短く感想を適切に言語化していないことから察せられる」ということなのだと考えます。そして「ソーシャルリーディングのプラットフォームが整い、読書のスキルが高い層が集まれば、有効なソーシャルリーディングが行われるようになるだろう」とお考えのようです。(もし、僕の読んだ意味そのものが違うのであればスミマセン。その場合は元発言の方への意見にはならないかもしれませんが、僕のソーシャルリーディングへの評価を述べるという意味合いで読んで頂ければと思います)

しかし、僕は、ソーシャルリーディングが普及しないのは、プラットフォームの問題ではなく、ソーシャルリーディングそのものが抱える限界に理由があると思っています。

わかりやすくするために、先ほどの書いたアニメの実況と比較しながら話を進めてみたいと思います。「実況」というのも、おそらくネット用語だと思いますので一応説明しておくと、アニメのテレビ放送などを見ながら、見ている者同士がTwitterで感想を述べ合うことです。アニメ以外でも、何かのイベントのネット中継でも同様の行動が見られます。僕自身の経験でいうと「はさぶさ」の大気圏突入の時(僕はまだTwitterを初めていませんでしたので、読んでいただけですが)やスペースシャトル「アトランティス」のラストフライトなどでしょうか。
ここで大切なのは「共時性」です。皆が同じ時間に同じものを見ているという気持ちが、コメントを書くモチベーションの大きな部分を占めています。「天空の城ラピュタ」のテレビ放送があった時、パズーとシータが唱える「バルス」という呪文に合わせて視聴者が一斉にツイートしたせいで、Twitterのサーバーがダウンしたという有名な話があります。それは、いかに「共時性」が意識されているかの一つの象徴です。
しかし「読書」という行為には、この共時性はありません。「読み聞かせ」であればそうではないかもしれませんが、一般に「読書」という行為は個人が行うものであり、むしろ映画・演劇などの共時性を前提とするものとの差違を意識している部分もあって「個人のペースで享受できる」という部分がその長所とされている部分があります。その読書の特性を考えると、文字を追う中で逐次的にコメントを付けるという行動が引き起こされにくいと言えましょう。

さらに、もう一つ。
実況がさかんに行われるアニメにおいても、分析的に感想が語られることはほとんどありません。先ほどの「バルス」がこれもまた象徴的ですが、感想どころか、カッコイイと思うセリフ、行動、さらには登場人物の名前をつぶやいておしまいということも多いのです。これはもちろん次々と先に進んでしまう時間的な制約もあるのでしょうが、僕はもう一つ理由があると思っています。
それは「部分の評価は、他の部分との関連もしくは全体の中の位置づけで決まる」ということです。
物語のある部分に感動したとして、それを分析的に語ろうとすると、当然、物語の他の部分も参照しなければなりません。では、その場合、どちらの部分に感想を書いたらよいでしょうか。
また、物語を読み解く技術として、いわゆる「行間を読む」というものがあります。直接的には描写されていない内容を、他の要素をふまえて「こうではないかと想像する」わけですが、これもどこにコメントを書くのか迷うケースです。
やはり、作品についてある程度以上のことを述べようとすれば、作品の複数の場面を参照せざるえないわけで、その意味でも逐語的にコメントとつけるのには無理があると思っています。

また、ある情報をどう評価するかには、評価する人物の価値観が大きく関わります。同じ人物が作品を語る場合であっても、何を軸にして語るかによっても個々の部分をどう評価し、どう関連づけるかは異なってくると思います。それらの前提を説明するということになると、今度はコメントの量が膨大になり、一覧性に問題が出てきます。


さらに身も蓋もない話をしますと、僕個人の経験では、多くの人が集まって意見の是非を検討するような場面では、「論点そのもの」が一致せずに、お互いの言いたい事がすれ違いのまま水かけ論になっておしまいというケースがほとんどです。ですから、書評サイトなどでも(もしくは映画のレビューや写真に対する評価でも同様)違った意見の人が議論して双方が納得できるような結論に昇華されるという幸運なケースはほとんどなく、そういうことがわかっているユーザーはあえて議論は避け、自分の意見と近い意見を見つけて喜びを感じる、という使い方に徹しているように見受けられます。僕は割と、色んなことを面白いと思えるタイプなので「~という意見は違うと思う」とはあまり思わないのですがね。あ、でも、逆に「~はつまらない」という意見には、時々我慢できなくて口だししてしまうことはあるかもしれません(笑)

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