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「氷菓」 クドリャフカ編 01

4044271038クドリャフカの順番 (角川文庫)
米澤 穂信
角川書店(角川グループパブリッシング) 2008-05-24

by G-Tools


氷菓のアニメ、「クドリャフカ編」が終わりましたので、また、感想をまとめてみたいと思います。
最初に全般的な印象を述べてしまうと、これまではアニメによって僕が見落としていた部分をかなりすくい上げてもらっていた部分があって、アニメのお陰で古典部シリーズへの理解がすごく進んだ、よりこのシリーズが好きになった、という感じがしていました。しかし「クドリャフカ編」に入ってからは、そういう「発見」は残念ながら少なくなってしまったと思います。むしろ「あ、ここが削られたな」と感じることが増えたと言ってもよいでしょう。それは、以前から書いているように、僕の中で「氷菓」や「愚者のエンドロール」の評価があまり高くなかったのに対して「クドリャフカの順番」はもともと原作の評価が高かったということと無関係ではありません。これはおそらく、読み手である僕の問題だけではなく、小説側の問題、心理描写が増えて作品世界への共感がしやすくなっている理由もあるでしょう。
それでも、アニメにはアニメが強調してきた意図があり、また文字表現と動画表現の差もあるわけで、そういう意味での「原作との差」は、やはり明確に存在します。その辺りを比較することで、アニメが語ろうとしていることが何なのか、それを僕個人がどう評価しているのかを、検証して行きたいと思っています。

クドリャフカ編で最も印象に残るのは、里志の視点を非常に意識していることです。原作では、4人が順番に語り手になる手法を取っているので、当然里志の視点も入っていますが、ラストの解決編(原作では奉太郎の視点で語られている部分)を里志が立ち聞きしてしまうという形にしていることで、里志の視点の比重がぐっと上がった感がありました。「愚者」でも彼の暗い表情を見せている所があり、これまでの方針を踏まえた流れになっています。
奉太郎の解決編に里志の視点を入れることの効果で僕が気づいたことは、二つあります。
一つは、話の流れを明確にすること。原作では、里志と摩耶花の会話→奉太郎の謎解き→摩耶花と河内先輩の会話となっているのに、アニメでは謎解きを最初に持ってきて、後半にそれぞれの屈託を並べることで、より対比が明確になっています。さらに言うと、田名辺先輩の本心もラストに持ってきていますしね。
こういった演出は第15話にもあって、話が動いている時には「表情」だけで伏線を張っておき、スピード感を損ねず、ラストにまとめて心理描写を入れていました。三人の屈託を並べて描写し、しかもそれがラストに来たことで、1日の終わりの感傷的な余韻が感じられました(この時の奉太郎は暢気でしたね。それがまた対比的だったのですが)。素晴らしい演出だったと思います。
二つ目は、里志の感じている奉太郎へのコンプレックスがより実感できる形で描写されているという点です。原作では「ふくちゃんが折木にやってたようなこと」で済まされているのですが、奉太郎の謎解きの間、里志の気持ちを視聴者が意識することで、謎解きが単なる解決編になっていないんですよね。
ただ、ここは単に里志のコンプレックスを刺激するだけではなく、奉太郎が里志のことをどう思っているか、里志が感じる場面にもなっていると思います。奉太郎が共謀者として里志の名前を出した時に、里志の反応を入れているのは、その辺りの意図ではないかと。
さて、この場面、時系列の操作以上に重要な改変が一つあります。それは、里志と摩耶花の関係です。
原作では、里志が自分の屈託を冗談めかして語るのを、摩耶花が真摯に受け止める、というのが印象的だったのですが、アニメでは里志は割と強い口調で語っています。冗談にまぎらせて本心を語らない原作の里志に対して、割とストレートに感情を出す里志の性格の改変は、以前からの流れですから、それについて文句を言うつもりはないですし、むしろ僕はプラスに評価しています。問題はそこではなく、原作では摩耶花の屈託を里志が無視したのに対して、アニメでは摩耶花が里志に関わろうとしている点(里志の制服に手を伸ばしている所)です。
この二人の関係は、ワイルドファイアの後での視線の交錯でも原作より強調されていましたし、規定路線ではあるのでしょう。僕は二人の仲が強調される演出はむしろ好きですが、しかし、話の流れを考えた時に「手作りチョコレート事件」での二人の関係をどう描くことになるのかが、気になります。もちろん、「愚者」の時はえるが奉太郎を元気づけたように、摩耶花の存在が少しは救いになったのならいいとは思うのですが。
さて、里志のことに話を戻しましょう。
原作では、打ち上げの提案は奉太郎が行っています。しかし、アニメでの奉太郎は田名辺先輩の「期待」という言葉の意味を考えていて、「完売」という成果にあまり喜んでいない感があります。それに加え、えるが十文字事件の真相を知りたがっていることに逃げ腰なので、自分から打ち上げを提案するのは、よく考えてみると不自然ではありますね。奉太郎のえるに対する態度としては、第16話でも彼女を推理の場から遠ざけたことについて「俺がやろうとすることを知ったら反対するに違いない」と、話したくない理由を明確にしてましたし、こだわりがあるようです。
そして、里志の側の意図として「これくらいは許して貰わないとね」という台詞を入れ、奉太郎への意趣返しであることを明確にしています。僕はこれを「悪意」とは取りません。相手への気持ちが「嫉妬」だけであるとしたら、河内先輩の安城春菜に対する態度と同じように、「無かったことにする」しかないはずです。里志が、この程度の「からかい」で奉太郎を受け入れるとしたら、それはかなり回復したと取ってもよいのではないかと思うのです。先ほど挙げた「共謀者としての自分」「摩耶花の存在」辺りが、その回復のきっかけになっているのではないかと踏んでいます。そう考えると、アニメ版は登場人物の気持ちの流れを、原作よりもさらにスムーズに改変しているな、と感じるわけです。

ここまで主にプラス面ばかりを語ってきましたが、マイナス面もないことはありません。
が、すでにブログの記事としてはかなりの長文ですので、それについてはまた、後ほど。

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