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2014年8月

今さらですが「TARI TARI」を語ります その4

今回は紗羽(さわ)の話。
紗羽の家は、北鎌倉にある浄智寺がモデルなのですが、アニメでは湘南江ノ島駅から山側に入った辺りにある設定となっています。

彼女が合唱を始めたのは、来夏が合唱部を作るのに人数が足らなかったからで、特に歌が大好きという雰囲気ではありません。でも、来夏を応援しようという気持ちはとても強く、第二話でアクシデントで合唱部メンバーがそろわずに棄権しようとした来夏に「あんた、これだけの人を巻き込んどいて何もしないで帰る気?」と怒ったのは彼女でした。第4話でコンドル・クインズの歌に圧倒されて歌うことを忘れそうになった来夏に「ファンクラブで満足なら、わたしもう合唱部やめるからね!」と叱咤したのも彼女です。
とはいえ、田中&ウィーンとの自主練習で、最初にファルセットができるようになったのも彼女で、来夏につきあってるだけだからと手を抜くような性格ではないのですね。
彼女は馬が好きで騎手になる夢を持っています。バドミントンで日本代表になることを夢見ている田中とは、大きな夢を追っているという点で気が合い、TARI TARIで唯一恋愛要素がからんでくる部分でもあります。

ところが、騎手の学校に入るのは体重や身長の制限があって入学を諦めざるをえない状況になり、中盤は気持ちがすさんだり、落ち込んだりする場面が目立つようになります。
自分たちを見下す言動をする声楽部に対してだけでなく、「少し距離を置いたら」とアドバイスした和奏にも「和奏はいいよ。音楽に戻ってきて、いま続けてるからそんなことが言えるんでしょ!」と声を荒げてしまいます。
この辺りの和奏と紗羽のやりとりは、お互い自分の傷をさらけ出した感じで、なかなかつらいものがあります。
「歌で、今でもお母さんとつながってる。でも、もし、もう一回お母さんに会えるんなら、わたし、音楽をやめてもいい。けど、それはもう叶わないから」
「あきらめなくていいことまであきらめたくないから、4人でも歌います。でも、紗羽が来てくれたら、とても心強いです」
前者は直接言葉で、後者はメールで和奏が紗羽に送った言葉です。笑顔を取り戻した和奏だけれども、諦めざるを得ないこともあるわけで、諦めなければいけないことと諦めてはいけないことを、逃げずに見極めることを、和奏は紗羽に伝えたかったのでしょう。
前半は、和奏と来夏、来夏と紗羽という組み合わせで描かれることが多かったのですが、この辺りから和奏と紗羽のつながりが一段と深くなったような気がします。

さて、日本で騎手の学校に入るのをあきらめた紗羽は、最終的には、入学に身長や体重の制限のない外国の学校への入学を希望することになります。
外国への留学や上京で友達と離ればなれなってしまうというシチュエーションは、漫画でもアニメでもよく見かけますが、TARI TARIほど前向きな気持ちで旅立つ友人を見送った作品は珍しいのではないでしょうか。それは、彼女らの歌が「今の自分」のものでありながら、自分たちを新しい世界へ向かわせるエネルギーにもなるものであるからなのだと思います。
この作品の中で挿入歌として使われる「心の旋律」という曲があります。和奏の母、まひるが高校時代に作った歌なのですが、その中にこんな一節があります。「そしてまたどこかで/君に届いたら/思い出して欲しい/輝く笑顔で過ごした日々を」この歌も、今の自分だけではなく、未来の自分への応援歌にもなっている。過去と現在と未来。その結びつきがとても強く意識されたストーリーになっているのが、TARI TARIの魅力の一つだと思います。

今さらですが「TARI TARI」を語ります その3

今回は和奏(わかな)の話。
橋本監督は、雑誌のインタビュー等で「TARI TARIは五人が主人公」と話されていますし、確かに五人それぞれの見せ場があるわけですが、物語が和奏の「行ってきます」で始まり「ただいま」で終わることを考えると、やはり和奏がメインヒロインと考えてよいと思います。


ちなみに、冒頭の「行ってきます」ですが、この時には父親とちょっとしたことで言い争いをした後なので、「こんな怒ってる時でも挨拶するのか」と思わせるのですが、これが非常に重要な伏線になっています。
この「行ってきます」の意味は第5話で明かされるのですが、それによって、これまで和奏がどんな気持ちで毎日を送ってきたのか、痛いほどにわかってしまい、とても切なくなります。
一つの大きなエピソードや、印象的な台詞や、絵の見せ方で心情を描く描き方も好きではありますが、さりげない伏線があり、その意味に気づいた時にそこに隠された心情が垣間見えるという描き方は、もっと好きなのです。
それが「日常の中にある=常に意識されているものである」ということ、本人が「主張」するのではなく「思わず出てしまうものである」ことが、より心情を印象づけるのだと思っています。
この辺り、僕が「日常の謎」と呼ばれるジャンルのミステリが好きなことと関係があるかもしれません。


さて、「その1」でも書いたように、和奏は五人の中で最も音楽に対して関わりのある生徒として描かれています。
彼女の母親は白浜坂高校合唱部のOGで、合唱部の全国優勝に貢献しただけでなく、卒業後にもコンドル・クインズに楽曲を提供して大ヒットするなど、音楽の才能に恵まれた女性として描かれます。
幼い頃から母親の歌声を聞いて育った和奏も、音楽が好きな少女に成長しますが、音楽科の受験のプレッシャーから「音楽は楽しむもの」という母親の考えに反発し、ぎくしゃくした関係になってしまいます。ちょうど彼女が受験を終えた頃、母親は病気のために亡くなってしまうのですが、最後まで母親に謝れなかったことや一緒に曲を作る約束を果たせなかったことを後悔し、歌うことの意味を見失ってしまうのです。
そんな彼女が、どうやって歌うことの楽しさを取り戻していったのか。それは、合唱時々バドミントン部のメンバーとの関係や、父親、紗羽の母親、コンドル・クインズといった大人達が彼女と母親をつなぐ役目を果たしてくれたことなど、さまざまなつながりがあったからこそです。
迷っている時、沈んでいる時の心は、そう簡単に動くものではありません。音楽を捨てようと思ったり、捨てきれなかったりと迷う和奏の気持ちをていねいに描き、そして色々な結びつきの中で彼女の音楽への気持ち、母親への気持ちが前向きなものに変わっていく様子を描いたからこそ、和奏が初めて歌う第6話のラストが印象的なのです。
そして、後半。それまで周りに引っ張られていた和奏が、今度は周りの人を引っ張る役目を果たしていく。そこに、彼女の大きな成長が見てとれます。


ちなみに、彼女の家は江ノ島でお土産屋さんを営んでいるという設定です。奥津宮の近く、稚児ヶ淵に降りる階段の手前にある「あぶらや」というお店がモデルです。
店頭には彼女の似顔絵を描いた黒板が置かれ、レジ前にはTARI TARIグッズがさりげなく並べられたりしていますので、江ノ島に行った際には、ぜひ立ち寄ってみて下さい。

今さらですが「TARI TARI」を語ります その2

あまりきっちり章立てを考えているわけではないのですが、今回は来夏(こなつ)の話です。

来夏は「合唱時々バドミントン部」の発起人であり、他のメンバーを部に引きずり込んだ張本人です。
そういった役目を担ったキャラクターにありがちな「元気がよくてかわいい子/単純でわかりやすい子」(高橋先生談)なのは間違いないですし、突飛な行動も多いのですが、それだけでは語れない面もあります。

彼女は、二年生の時の合同音楽会で緊張のあまりひどい失敗をしてしまい、それから一年近くの間、歌わせてもらえずピアノの譜めくりを担当しています。が、顧問と決定的に対立して「これでは歌わないまま高校生活が終わってしまう」と、別の部を立ち上げることを決意するのです。
緊張しやすい性格を克服するために駅前の広場で歌う練習をしたり、一年近くも譜めくり役を続けてまで部に居続けたり、そもそも普通科の生徒であるにも関わらず音楽科の生徒ばかりの声楽部に所属していたり、これまでも色々な努力を続けてきたのでしょう(漫画版では音楽科を受験したけど合格できなかったというエピソードも入っています)。
彼女の音楽の原点は、小さい頃祖父と一緒によく聞いたというコンドル・クインズの歌で、昨日や今日、合唱を始めたというわけではありません。
しかし、それでも彼女は自分が音楽の才能に恵まれていないことを自覚しています。彼女が歌いたいのは自分が歌を好きだという気持ち、歌を歌うのが楽しいという気持ちを抑えきれないからで、自分を見下している顧問(教頭)や声楽部のメンバーには対抗心を持っているものの、プロの音楽家になりたいとか大会で優勝したいとか、そういう野望を抱いているわけではありません。
この作品の最終回で大学に進学した後の来夏の様子が少しだけ出てくるのですが、そこでも彼女は歌ではなく、他の活動を始めるような描かれ方をしています。
歌うことに迷うことの少ない彼女が、歌うことを忘れそうになる場面が二度あるのですが、そのうちの一つがあこがれのコンドル・クインズと出会い、彼らの歌を生で聴く機会に恵まれた時でした。歌う側ではなく、聴く側へと意識がいってしまうのですね。
しかし、その時には紗羽(さわ)の一喝とコンドル・クインズのメンバーたちからのアドバイスで、ささやかながらも自分たちの舞台を手に入れる道を選ぶことになります。
大きな舞台でなくても、専門家としてその道を究めることができなくても、自分たちのために歌うこと、それが彼女たちが選んだ道です。ある意味、アマチュア賛歌ともとれるでしょう。

これは全く個人的な事情なのですが、僕は大学時代に小説の同人誌を主宰していました。こうしてブログに文章を書いて発表しているくらいですから、自分の考えを文章の形にして発表したいという気持ちは今でも失っていませんが、「TARI TARI」を見て以来、もう一度小説も書いてみようかという気持ちになっています。
さらに、もう一つの趣味である写真でも、この作品に背中を押されるような形で、公募展に出展するようになりました。
第1回の記事で「『行動』になってしまうことの方が多かった」と書いたのはこの辺りです。
そういう意味で、僕にとってこの作品は、大きな意味を持つ作品になってしまったのですが、和奏(わかな)のエピソードだけではこんな気持ちにならなかったはずです。

さて、話を来夏に戻しましょう。
和奏が母親との約束を果たせなかったことを後悔している時に、来夏はその気持ちをそれとなく察して、自分も祖父との約束を果たせなかったことを話します。約束を果たせなかったからこそ、悔しいので、祖父のことをいつも思い出すのだと、後悔を前向きな気持ちに変える視点を示してくれるのです。
しかも、それが、和奏の話とは関係なく、自分の昔話を単に紹介しているのだ、という感じで。
紗羽の悩みに対しては的外れな心配をしたりもしているのですが、押しが強いようで、実は細かな気配りもできる子なんですね、来夏は。

今さらですが「TARI TARI」を語ります その1

「TARI TARI」は2012年7月から9月にかけて放送されたTVアニメです。
放送終了から間もなく二年になろうとしていますが、僕の中では未だに反芻されている作品です。
実は放映中にはブログの記事も書きませんでしたし、ツイッターでもほとんど感想をつぶやいていません。分析的に感想を述べるというよりは、どちらかというと触発されて「行動」になってしまうことの方が多かったですし、この作品の良さなんてのは「見ればわかるだろう」くらいの気持ちでいたわけです。
しかし、二年も経ってだんだん冷静に作品を振り返ることができるようになったり、他の作品(アニメだけでなく漫画や小説なども)を見ている時に「でもTARI TARIでは~だったよな」などと思ってみたりしているうちに、この作品の好きなところが段々わかってきたような気がするのです。

「TARI TARI」は非常に大雑把な分類をすると「部活物」の作品です。声楽部を退部した来夏(こなつ)が音楽科から普通科に転科してきた和奏(わかな)や友人の紗羽(さわ)を誘って合唱部をつくる、という流れで始まります。最低五人集めないと部として認められないことから、男子生徒二人(田中&ウィーン)を巻き込むエピソードもあります。

部員集めのエピソードは部活物のアニメや漫画では古典的なものですが、「TARI TARI」が特異的なのは、集まった五人のうち、本当に歌を歌いたいと思っているのが来夏と和奏だけだ、という状況です。
普通、この種の物語では、これまで活動に興味のなかった相手が何かをきっかけに一生懸命になったり、別のことに夢中になっていた相手が活動へと興味の対象が移ったりすることが多いのです。が、その変化があまりに唐突であったり、心情の描写が浅かったりすると、僕はあまり共感することができません。

「TARI TARI」の場合には、来夏と和奏の二人には、歌にまつわるエピソードをきちんと用意し、彼女らがどう歌と向き合っていくのかをしっかり描いています。何しろ来夏が第1話で和奏を誘ってから和奏が歌うまで6話もかけているのですから。
それ以外の登場人物に対しては、無理に歌に気持ちを向けようとしない。でも、それは決して歌の存在が軽いわけではないのです。彼らが何かと向き合う中で感じているものを、歌という形で表現することで、迷いに立ち向かうことができる。歌のみが彼らの全てではないけれど、歌うことで出来ることもある。「~たり、~たり」というタイトルが示す通り、迷いながら進んでいく彼らの生き様が、まさしくこの作品のテーマでもあるのです。

1回でまとめるつもりが、まとまりきれませんでした。和奏・来夏にとっての歌の意味、田中にとっての合唱時々バドミントン部、紗羽と和奏・来夏の関係、ウィーンの存在感などなど、書きたいことがたくさんあるので、シリーズ化する予定です(笑)。

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