フォト

Google AdSense

twitter

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 2014年10月 | トップページ | 2015年9月 »

2015年7月

「バケモノの子」

7月29日、大ヒット御礼舞台挨拶開催ということで、渋谷で二回目の鑑賞。一回目は新宿でした。
舞台挨拶の登壇は、細田守監督、宮﨑あおいさん、染谷将太さんのお三方。

舞台挨拶の中で印象に残ったお話をいくつか拾ってみます。
細田監督…渋天街は渋谷の坂道の雰囲気が感じられるように描いているので、そこに注目して欲しい。(宮﨑さんからの『師匠と呼べる人は?』の質問に対して)初めに東映動画に入社して「セーラームーン」などを作っていた。そこで「師匠」と言える人にたくさん出会った。(染谷さんの『衝撃を受けた映画は?』の質問に対して)中学生の時に見た劇場版の「銀河鉄道999」。(999の話からの流れで)今まではそこまで考える余裕がなかったけれど、今回は「子どもが夏休みに見る映画」として、普段とは違う経験をして一皮むけて成長する話を意識して描いた。舞台となった渋谷で夏休みに舞台挨拶ができて嬉しい。
宮﨑あおいさん…スタジオ地図にお邪魔して、皆さんが本当に細かい所までこだわって作業されているのがわかったので、是非そのこだわりを見て欲しい。音の作り方も、刀を振る音を作るために色々なものを実際に振ってみたり、色々な履き物を用意して熊徹の歩く様子を再現してみたり、本当にこだわっている。
染谷将太さん…自分たちの顔は頭から消して映画を楽しんで欲しい。(監督への質問から逆に返されて)衝撃を受けたのはジャッキー・チェンの映画。

細田監督の「銀河鉄道999」の話、自分も中学生の時に劇場で「999」を見てる世代ですので、「ああ、同世代なんだな」と実感しました。

さて、映画の話ですが、「確かに心打たれるシーンも台詞もあるけれど、ひっかかる所もあるので『時かけ』や『サマウォ』ほど夢中になれる感じでもないなぁ」というのが総合評価です。

まず、好きなところから挙げていきますと、やはり九太の成長を見守る大人たちの姿ですかね。一人で大人になった熊徹が、やはり一人で生きていこうとする九太に自分を重ねて受け入れていくところとか、自分が九太の「胸の中の剣」になるところ。二人は口ゲンカばかりしているけれど、それだけ本音をぶつけあっているわけで、そこにいつの間にか生まれた信頼関係は、どことなく押しつけがましい感のある「師弟関係」とは違うな…と感じるところ、などでしょうか。
それに、九太が一郎彦を倒しに行く場面の多々良と百秋坊のつぶやき、本当にそうだよなぁと共感しまくりでした。
「心の闇」へのスタンスも好きですね。九太は一郎彦が憎いから倒しに行くのではなく、自分も抱える問題だから放っておけないという考え方です。楓も、闇を否定しているわけじゃない。夜の図書館で九太を叩いた後、頭を抱き寄せ、そして自分を守ってくれたスピン(本の栞ひも)を九太に渡すシーン、大好きです。

一方、「ひっかかる所」も「心の闇」についてが一番大きいのですよね。
心の闇を抱えるのは人間のみで、バケモノはそうならない。猪王山のいい人ぶりも次郎丸の能天気ぶりも気になるのですが、その辺りの人間とバケモノの違いがなんなのか、判然としないところがあります。
熊徹にしても「ひとりきりであることのさみしさ」が九太との接点だとすると、なぜ九太は心の闇を抱えるのに熊徹は平気なのか。それどころか「胸の中剣」を持つことができたのか(幼少期の九太への説教を考えるに、彼には当たり前のようにそれがあったと考えられます。九太とのふれあいの中で生まれたのではなく)、その辺りがわからないのです。
それに、なぜ、九太の心の闇が、一郎彦の闇を吸収できるのか、その理屈もよくわかりません。そして、熊徹の助けを借りて九太が一郎彦を倒した後、彼の中の心の闇はどうなったのか、その辺りも判然としません。
大事なことを扱っている割に、エンターテインメント的な雰囲気で何となく処理してしまった感がぬぐえないのです。
それに、九太も一郎彦も楓も、抱えている闇が全て「親子関係」に起因するものです。確かに親子関係は人間にとって重要でしょうが、ちょっと画一的過ぎやしないかなという印象です。
特に、楓は九太にとって「闇を制御する術」を教えてくれ、「人間の世界」への入り口になってくれる存在です。彼女のエピソードは、もう少し膨らませて欲しかったですね。現実に九太が人間世界で生きることになれば、お金とか住民票とかも問題があるわけで、父親を登場させざるを得なかったのはわかるのですが、むしろそちらをファンタジーで押し切ってもらった方が良かった気がします。

そしてもう一つ。「学ぶ」ということの扱い方。十七歳の九太が渋谷に戻ってきた時に、なぜ図書館に行くのかわからないという感想をネットで見たことがあります。僕は、そこに関しては補完できると思うのです。冒頭のシーンで九太の引っ越しの荷物の中に「白くじら」(白鯨の子ども向け版)が映ります。九太はもともと本好きな子どもだったのでしょう。久しぶりに人間の世界に戻って居場所のない彼が、幼い頃によりどころにしていたものを求めるのは、あり得ることです(確かに説明不足なのではとは思いますが)。
「白鯨」を読みこなすことを目指すならば、単に知らない言葉を知るだけではなく、舞台となる場所についての地理的知識、海の生物についての知識など、多岐に渡る知識が必要なことは確かです。しかし、それらはやはり一定の狭い方向性を持った情熱です。一方、受験勉強は「広くまんべんなく、体系的に学ぶこと」を要求するもので、大学は「狭い専門について自分なりの考えを見つけるところ」なので(全て私見ですが)、「白鯨」を入り口に「大学に行く」という方向になるのが、どうもしっくりこないのです。
「白鯨」は「自分自身と戦ってる」ことの象徴として一郎彦の姿にも使われており、重要なモチーフとなっているだけに、文芸的な要素に集約して描いて欲しかったと思うのです。

高山市合併10周年を記念映画「きみとみる風景」

映画「きみとみる風景」を新宿K's cinemaにて見てきました。
この映画は高山市合併10周年を記念して、地元製作委員会が中心となって撮影された映画です。

公式サイトはこちら

「高山を離れ、よその地で頑張っている家族や知人が『久しぶりに高山に帰ってみようかな』と思ってくれるような」「縁あってよその地から高山に移り住んだ方から故郷へ『こんな高山でがんばっているよ』を伝えられるようなそんな映画を作ってみたい」というコンセプトで作られた映画(HPより)なので、高山に住んでいるわけでも、高山出身でもない人間が見て楽しめるものか、正直不安な部分もあったのですが、それでも、充分楽しめる映画であったように思います。

「きみとみる」という言葉がタイトルにあるように、単に「風景の美しさ」「町並みの美しさ」を記録したものではなく、幼い時に体験した「誰かとの記憶」が、今を生きる大人にとって、これからを生きる子供にとって、大切なものになるのだというメッセージが込められた映像だったと思います。

もちろん、手放しに褒めるのは躊躇われる部分もあります。
幼い頃に少しだけ高山に住んだことがあるけれども、特に高山に思い入れを抱いているわけではない写真家が、この物語の主人公です。
彼女に声を掛け、高山の良さを理解してもらおうとする人物が登場するのですが、僕から見ると彼の行動は無遠慮すぎますし、それに抵抗を感じながらもついいいなりになってしまう主人公の気持ちは、もう一つ理解できないところでもあります。「故郷を持つ人間と持たない人間」「人に心を開けず人を撮るのが苦手な写真家が人を撮れるようになる」という対比や変化は、わかりやすくはありますが、そんな単純なものではないだろうという気持ちもあります。

ただ、「観光客」というにはしばしば高山に足を運び過ぎている自分の経験からして、高山の方々が「部外者」であるはずの我々に見せる屈託のなさは、確かに僕らに安心感をもたらし、「また高山を訪ねてみたい」と思わせるのに値するものだったりするのですよね。

僕が映画を拝見した23日には、監督や高山市の企画の方、撮影にも関わったNPOまちの縁側育み隊代表の方のトークショーがあったのですが、その中で「これからの観光は小さなコミュニティの集合という側面があるのではないか」(表現はずいぶん違うと思います)という意味のことをおっしゃっていて、なるほどそれは正しいなぁと思いながら聞いておりました。
そんなわけで「ちょっと強引過ぎるだろう」とは思ってもそれが「良くない」とは思えないところが、自分自身あるのですね。
主人公のコミュニティへの溶け込み方がもう少し緩やかで自然ならば、彼女を助けようと思う彼の気持ちがもう少し穏やかで性急なものでなければ、もっと素直に映画を楽しめたかも、というのが正直な感想です。

« 2014年10月 | トップページ | 2015年9月 »