フォト

Google AdSense

twitter

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

« 「この世界の片隅に」 | トップページ

映画「氷菓」

12月5日(日)横浜のブルク13で映画「氷菓」を見てきました。
このブログの記事を見ていただけると分かりますが、僕はもともと原作小説のファンで、2012年に放送されたアニメ「氷菓」も見ておりますので、それらとの比較という点を中心に感想をまとめてみました。
小説版、アニメ版、実写版のいずれの内容にも触れておりますので、ネタバレにはご注意下さい。


好きな小説が実写映画化・アニメ化されることについて、以前の僕はあまり嬉しく思っていませんでした。「氷菓」のアニメ化の時も、最初はメインビジュアルのポスターを書店で見かけて「古典部の4人が揃って下校? ありえん」とか思っていたものです。しかし、実際にアニメを見てみると、その出来はとても素晴らしく、それ以降、むしろアニメ化を歓迎すべき事態として捉えるようになったくらいです。
なぜ実写映画化・アニメ化に不満があることが多いかというと、時間的な制約から台詞や説明や場面そのものが省略されることが多く、下手をすると大きく改変されてしまうこともあるからでしょう。
アニメ「氷菓」良かったのは、場面や台詞の取捨選択の的確さ、動きや音声や音楽など「アニメならでは」の演出、改変した場合もその狙いが明確でむしろ作品の味になっていたことだと思っています。
今回の実写化に関しても、何かしら「映画ならでは」の部分があるならば良いなぁと思っていたのですが、試写会に参加された方や初日に映画を見た方の感想で、その「ならでは」の部分があると分かっていたので、かなり期待して臨みました。


今回の映画の一番の特徴は、えるの失踪した伯父「関谷純」にスポットを当てたことです。もの凄く省略した説明をしてしまうと、「氷菓」は失踪した伯父がまだ幼かったえるに伝えた言葉を探る物語です。もちろん、その推理が成功して物語が終わるわけですが、それはえるにとっても「過去を思い出すこと」であり「伯父の死を受け入れるための儀式」であり、それ以外の人にとっては「過去にそういうことがあったという事実の確認」に過ぎなかったのではないかと思っています。唯一、奉太郎だけが関谷純の苦しみに共感したのであり、だからこそ「氷菓」のタイトルに込められた意味に気づけたのではないかと。
しかし、この映画では「現在の視点」から過去の事実を紐解くという描き方だけではなく、当時のできごとを再現する映像を入れることで、関谷純の無念さを、そこに見ている人が共感できるような形で描きました。しかも1960年代の学生運動の実際の映像を入れることで今となって(特に若い人には)分かりづらいであろう当時の雰囲気も伝わりやすくなっていたと思います。これは「実写」でしかできないことです。


そして、関谷純の悲劇性を高めるために、さまざまな原作からの改変を行っています。
その1つは、関谷純の学生運動における役割を変えたことです。原作では、具体的な行動が書かれているわけではありませんが「名目上のリーダー」だとされています。「名目上」ではあれ「リーダー」という立場ではあったわけです。しかし、映画では「冤罪」とされており、理不尽さが増すことによって悲劇性が強調されました。2つめは、その「冤罪」を産むきっかけとして関谷純と糸魚川先生の間にエピソードを追加したことです。「優しい英雄」という原作にもある言葉を補強する形で、「優しい」に具体的な肉付けを行ったわけです。このエピソードは、冤罪を産むきっかけという実利的な部分だけではなく、糸魚川先生の罪悪感を強めるという心理的な意味も産みました。そのため、原作ではなぜ無くなったのか説明されていない「氷菓」創刊号は、彼女が真実を隠すために隠匿したことになっています。創刊号に何が書いてあったのかは説明されていないので、彼女が何を具体的に隠したかったのかは不明ではあるのですが。「氷菓」第二号にあった「憶えていてはならない」は原作では「偽りの話であるから」という意味だと思うのですが、映画では「忘れたいことだから」という意味も含むことになるわけです。その辺りの葛藤も映画の見せ場になっており、映画のラスト近くでは、それまで図書室に置いていなかった「氷菓」を、創刊号も含めて、糸魚川教諭が図書室に並べている姿が描かれています。それは「氷菓」に込められた関谷純の無念を彼女が改めて認識し、「忘れてはならないこと」「伝えなくてはいけないこと」と考えを改めた結果なのでしょう。
ちなみに「氷菓」第二号の序文(僕はこの序文がとても好きなのですが)の最後の一文が削除されていました。「いつの日か、現在の私たちも、未来の誰かの古典になるのだろう」という一節です。糸魚川先生が(これを書いた当時は郡山養子ですが)「憶えていてはならない」と考えたのであれば、「現在の私たち」は未来に残さないわけで、「古典」にはなり得ないだろうという考えからの改変なのではと思っています。


僕はこれらの改変が悪いとは思っていません。
先に書いたように「映画ならでは」の部分がないと、すでに十分な高評価を得ている作品を別の媒体で作り直す必要がないからです。そういった意味では、映画「氷菓」は十分に存在価値のある作品だと感じました。


ただ、見終えた後に多少の違和感があったことも確かです。
原作では、奉太郎が糸魚川先生に「俺が訊きたいのは一つです。関谷純は、望んで全生徒の盾になったんですか」と訊いてから先生の話が始まったのですが、映画ではその台詞(改変されてたかも)が糸魚川先生の話の後になっていました。そのため、奉太郎の推理がほぼ真実を言い当てていたことも、彼が何を知りたくて糸魚川先生を訪ねたのかもわかりにくくなってしまったようです。
僕は映画館でそのシーンを見た時に少し違和感を覚えました。そこまで関谷純の気持ちがわかっているなら、今更そんなことは聞かなくてもわかるだろう、という違和感です。
映画では、観客も、登場人物たちも関谷純に感情移入している場面なのに、そこであえてそれを聞くのは妙だなと思ったわけです。
原作では、糸魚川先生は過去を語る時に感情を見せていません。それは描写されていないという意味ではなく、感情を見せていないということが奉太郎の視点から何度も確認されているのです。そして、「氷菓」というタイトルに関谷純が込めた意味も、糸魚川先生や古典部のメンバーに気づかないことに奉太郎がいらだちを覚える場面もあります。そういう意味では「氷菓」は「口に出来なかった思い」「伝わらなかったメッセージ」の哀しみを描く作品でもあるわけです。
これは、後に続く〈古典部〉シリーズでも同様で、この作品の根底にあるテーマなのかとも思っています。
伝えたい気持ちを伝わるように描いたことで伝わらないもどかしさが前面に出なくなってしまったという点に、やや皮肉なものを感じないではありません。


他に奉太郎とえるのキャラクター性とか、細かい変更点の効果とかも書きたかったのですが、やや長くなりすぎましたので、またそれは次の機会に。

« 「この世界の片隅に」 | トップページ

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/38050/66012695

この記事へのトラックバック一覧です: 映画「氷菓」:

« 「この世界の片隅に」 | トップページ