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カテゴリー「アニメ・コミック」の記事

「この世界の片隅に」

11月14日、立川シネマシティの「極上音響上映」で鑑賞しました。
立川シネマシティさんの告知ページはこちら
公式ホームページはこちら


戦前から戦中にかけての広島を舞台に、広島から呉に18歳で嫁いだすずさんを主人公にした物語です。
時代と舞台を考えれば、当然、戦争も原爆も描かれることになるわけですが、この映画が戦争を描くための映画かというと、そうではないと思います。
物語はすずさんの幼少期から始まり、昭和初期の広島市の人々の暮らしがていねいに描かれます。日常の仕事、家族や親戚との関わり、幼なじみの男の子。そして、そのすずさんが18歳の若さで呉に嫁ぐわけですが、嫁ぎ先での生活、親族との軋轢、ご近所とのつきあいなど、様々な場面が登場します。
映画を見ている間、自分もすずさんと一緒に昭和初期の呉で生きているような、そんな気持ちにさせられました。
なぜなら、この物語はすずさんの世界を、まるごとそのまま写し取ったような大きさを持っているからです。家族の話、恋愛の話、絵の話、町の話、戦争の話、そういった様々な要素を全て含んでいるのです。
そして、その時々のすずさんの素直な心情の吐露に引き込まれ、彼女のことをとても愛しく感じることができました。すずさんの声を演じたのんさんの演技が愛らしかったことも大きな要素かもしれません。そして、彼女を愛しく思えるからこそ、彼女の喜びも寂しさも怒りも悲しみも、受け取ることが出来る。そんな映画でした。


戦争を描いた映画というと、悲しさや悲惨さばかりが描かれるという印象があります。もちろんこの作品でもそういう部分は描かれていますが、それ以上に、嬉しさや楽しさも描かれているのです。それは、戦争を描いた場面でも同様で、例えば、呉を襲った米軍機を迎撃する紫電改が描かれる場面があるのですが、そこではその機体の開発に関わったすずさんのお義父さんが「わしらの2000馬力がええ音出しとる」と、自分たちの技術を誇りに思う場面があります。また、食糧難の時代に、道ばたに生えている草をあつめて、なんとか食卓に彩りを添えようと頑張るすずさんの楽しそうな姿も描かれます。
それはある意味、非常にけなげな場面で、人はどんな苦しい状況でも幸せを見つけて生きることができるということを訴えている面もあると思うのですが、苦しい状況に追い込まれた人間は、その苦しさに気づかずに、それを当たり前のものとして捉えてしまうという怖さも描いていると思うのです。そして、戦争の中の日常を描くこの映画が、その恐ろしさを意図的に描こうとしいているのだ、ということをくみ取れる場面もありました。


今の時代も、そこに飲み込まれてしまっている我々には気づかない(あるいは気づいているのに流されてしまっている)歪みがあるのではないか。そんなことも考えさせられる映画でした。


最後に、少し明るい話も。僕は最近「艦隊これくしょん」というゲームを始めたのですが、この映画にも駆逐艦や巡洋艦、戦艦の名前がいくつか出てきます。少し前の僕なら大和くらいしかわからなかったと思うのですが、青葉や利根の名前が出てきて嬉しかったことも追記しておきましょう。

作品世界の年代感覚について考えたこと

昨年末の12月24日・25日に飛騨高山に旅行してきました。
ここ数年、年に数回ずつ訪れているお気に入りの場所ですが、その楽しみの一つに、高山出身の小説家・米澤穂信さんの小説に登場する場所のモデルを訪ねる、いわゆる「聖地巡礼」があります。
ことにアニメ化された「氷菓」(小説の方は〈古典部〉シリーズと呼ばれますが)では、実在の場所をモデルにアニメの作画が行われているため、街を歩くだけで、まるでアニメの世界にいるかのような気持ちにさせられます。
僕はこれまでに何度も高山を訪れていますので、モデルになった場所に行ってカット合わせの写真を撮るような形での「聖地巡礼」はもうしていませんが、今回、何度目かの「聖地巡礼」をしながら考えたことがありますので、それについてまとめてみたいと思います。

実は、今回の高山行きで、新たに聖地巡礼のリストに加わった場所があります。2015年12月12日発売の「野性時代」に〈古典部〉シリーズの新作「いまさら翼といわれても」の前編が掲載されたためです。「いまさら翼といわれても」には神山市文化会館が登場するのですが、その位置や外観は高山市文化会館をモデルにしたものと思われます。そこでさっそくその場所にも行ってみたのですが、雑誌に作品が掲載されたばかりであるだけでなく、まだ「前編」で作中の謎が解説されていないこともあり、まさしく「今」起きている事件であるかのような感覚を抱いて、僕はその場所に立ったのでありました。
しかし、その後、これまで何度も訪れた聖地を歩きながら、僕は文化会館を訪れた時との気持ちの落差を感じずにはいられませんでした。もちろん「慣れ」による感動の薄まりというような話ではありません。それは、アニメと小説との「年代設定」に関する落差についての問題でした。

そもそも小説〈古典部〉シリーズの年代設定は2000年です。彼らが高校二年生になった最新作でも2001年なのです。ですから、僕が小説を読む時には、2000年に存在した彼らの世界を、2016年にいる自分が体験しにいく、という感覚で読みます。このように、自分が現実にいる年代と、小説の世界の年代が異なることは、小説では珍しいことではありません。
例えば、米澤穂信さんが2015年に刊行された「王とサーカス」では作中の年代が2001年に設定してあります。〈古典部〉のように「刊行から時間が経過したから」という理由ではなく、作品としてその年代である必要があれば、現時点での年代にこだわらず作中年代が設定されるわけです。

しかし、アニメ「氷菓」の年代設定は放送が行われた2012年です。そして、僕は(あるいはネットの反応を見る限り多くの視聴者が)リアルタイムで進行している物語としてそれを捉えていました。Twitterでも「今日は○○が○○する日」あるいは「ちょうど今頃○○している時間」などという書き込みを僕自身もしていますし、多く読んでもいます。
その舞台となった場所に足を運んでいる時も「あの時に○○があった場所」という意識でいるのですが、それが1年経ち、2年経ちという時間の経過にともない「あの時」が次第に「過去」になっていたのだなぁというのが、自分の感じた違和感の正体でした。

発表されたばかりの小説を読んだ時には、先ほども書いた通り「リアルタイム感」が戻ってきます。作中の物語が「過去」なのか「リアルタイム」なのか、その辺りの感覚に「落差」ができてしまったということのようです。
小説を読む時には、作中の年代が過去であっても「今の自分がそれを垣間見ている」という感覚で読んでいる気がします。なのでそれほど「過去に起きたこと」という感覚がないのですね。
アニメの場合、「放送された時」が「リアルタイム」であり、時間が経つとその分だけ作品世界であったことも「過去」になっていくのかな、というのは今回気づいたことです。
もちろん、アニメでも放送時期と作中設定年代が異なるものもありますし、今回は「作中の場所を訪れる」という自分自身の経験も「過去」として認識されていること、ネット上での作品の扱いがやはりそれを「過去」にしていきやすいことなどがあり、一概に「アニメ」と「小説」の違いとはいえないかもしれません。
でも、今までに感じたことのないギャップだったので、それがどういうことなのか、まとめておきたかったのです。この件は、しばらく自分の中での宿題になりそうです。

「バケモノの子」

7月29日、大ヒット御礼舞台挨拶開催ということで、渋谷で二回目の鑑賞。一回目は新宿でした。
舞台挨拶の登壇は、細田守監督、宮﨑あおいさん、染谷将太さんのお三方。

舞台挨拶の中で印象に残ったお話をいくつか拾ってみます。
細田監督…渋天街は渋谷の坂道の雰囲気が感じられるように描いているので、そこに注目して欲しい。(宮﨑さんからの『師匠と呼べる人は?』の質問に対して)初めに東映動画に入社して「セーラームーン」などを作っていた。そこで「師匠」と言える人にたくさん出会った。(染谷さんの『衝撃を受けた映画は?』の質問に対して)中学生の時に見た劇場版の「銀河鉄道999」。(999の話からの流れで)今まではそこまで考える余裕がなかったけれど、今回は「子どもが夏休みに見る映画」として、普段とは違う経験をして一皮むけて成長する話を意識して描いた。舞台となった渋谷で夏休みに舞台挨拶ができて嬉しい。
宮﨑あおいさん…スタジオ地図にお邪魔して、皆さんが本当に細かい所までこだわって作業されているのがわかったので、是非そのこだわりを見て欲しい。音の作り方も、刀を振る音を作るために色々なものを実際に振ってみたり、色々な履き物を用意して熊徹の歩く様子を再現してみたり、本当にこだわっている。
染谷将太さん…自分たちの顔は頭から消して映画を楽しんで欲しい。(監督への質問から逆に返されて)衝撃を受けたのはジャッキー・チェンの映画。

細田監督の「銀河鉄道999」の話、自分も中学生の時に劇場で「999」を見てる世代ですので、「ああ、同世代なんだな」と実感しました。

さて、映画の話ですが、「確かに心打たれるシーンも台詞もあるけれど、ひっかかる所もあるので『時かけ』や『サマウォ』ほど夢中になれる感じでもないなぁ」というのが総合評価です。

まず、好きなところから挙げていきますと、やはり九太の成長を見守る大人たちの姿ですかね。一人で大人になった熊徹が、やはり一人で生きていこうとする九太に自分を重ねて受け入れていくところとか、自分が九太の「胸の中の剣」になるところ。二人は口ゲンカばかりしているけれど、それだけ本音をぶつけあっているわけで、そこにいつの間にか生まれた信頼関係は、どことなく押しつけがましい感のある「師弟関係」とは違うな…と感じるところ、などでしょうか。
それに、九太が一郎彦を倒しに行く場面の多々良と百秋坊のつぶやき、本当にそうだよなぁと共感しまくりでした。
「心の闇」へのスタンスも好きですね。九太は一郎彦が憎いから倒しに行くのではなく、自分も抱える問題だから放っておけないという考え方です。楓も、闇を否定しているわけじゃない。夜の図書館で九太を叩いた後、頭を抱き寄せ、そして自分を守ってくれたスピン(本の栞ひも)を九太に渡すシーン、大好きです。

一方、「ひっかかる所」も「心の闇」についてが一番大きいのですよね。
心の闇を抱えるのは人間のみで、バケモノはそうならない。猪王山のいい人ぶりも次郎丸の能天気ぶりも気になるのですが、その辺りの人間とバケモノの違いがなんなのか、判然としないところがあります。
熊徹にしても「ひとりきりであることのさみしさ」が九太との接点だとすると、なぜ九太は心の闇を抱えるのに熊徹は平気なのか。それどころか「胸の中剣」を持つことができたのか(幼少期の九太への説教を考えるに、彼には当たり前のようにそれがあったと考えられます。九太とのふれあいの中で生まれたのではなく)、その辺りがわからないのです。
それに、なぜ、九太の心の闇が、一郎彦の闇を吸収できるのか、その理屈もよくわかりません。そして、熊徹の助けを借りて九太が一郎彦を倒した後、彼の中の心の闇はどうなったのか、その辺りも判然としません。
大事なことを扱っている割に、エンターテインメント的な雰囲気で何となく処理してしまった感がぬぐえないのです。
それに、九太も一郎彦も楓も、抱えている闇が全て「親子関係」に起因するものです。確かに親子関係は人間にとって重要でしょうが、ちょっと画一的過ぎやしないかなという印象です。
特に、楓は九太にとって「闇を制御する術」を教えてくれ、「人間の世界」への入り口になってくれる存在です。彼女のエピソードは、もう少し膨らませて欲しかったですね。現実に九太が人間世界で生きることになれば、お金とか住民票とかも問題があるわけで、父親を登場させざるを得なかったのはわかるのですが、むしろそちらをファンタジーで押し切ってもらった方が良かった気がします。

そしてもう一つ。「学ぶ」ということの扱い方。十七歳の九太が渋谷に戻ってきた時に、なぜ図書館に行くのかわからないという感想をネットで見たことがあります。僕は、そこに関しては補完できると思うのです。冒頭のシーンで九太の引っ越しの荷物の中に「白くじら」(白鯨の子ども向け版)が映ります。九太はもともと本好きな子どもだったのでしょう。久しぶりに人間の世界に戻って居場所のない彼が、幼い頃によりどころにしていたものを求めるのは、あり得ることです(確かに説明不足なのではとは思いますが)。
「白鯨」を読みこなすことを目指すならば、単に知らない言葉を知るだけではなく、舞台となる場所についての地理的知識、海の生物についての知識など、多岐に渡る知識が必要なことは確かです。しかし、それらはやはり一定の狭い方向性を持った情熱です。一方、受験勉強は「広くまんべんなく、体系的に学ぶこと」を要求するもので、大学は「狭い専門について自分なりの考えを見つけるところ」なので(全て私見ですが)、「白鯨」を入り口に「大学に行く」という方向になるのが、どうもしっくりこないのです。
「白鯨」は「自分自身と戦ってる」ことの象徴として一郎彦の姿にも使われており、重要なモチーフとなっているだけに、文芸的な要素に集約して描いて欲しかったと思うのです。

akiraの100冊/マンガ編

2014年10月新規作成

青い空を白い雲がかけてった  あすなひろし
陽あたり良好!  あだち充
H2  あだち充
ナイン  あだち充
タッチ  あだち充
寄生獣  岩明均
ぼっけもん  いわしげ孝
3月のライオン  羽海野チカ
ハチミツとクローバー  羽海野チカ
PLUTO  浦沢直樹
すくらっぷ・ブック  小山田いく
星のローカス  小山田いく
とめはねっ!  河合克敏
空の食欲魔人  川原泉
カレーの王子様  川原泉
甲子園の空に笑え! 川原泉
銀のロマンティック…わはは  川原泉
笑う大天使  川原泉
すくらんぶるゲーム  川原由美子
前略・ミルクハウス  川原由美子
マカロニほうれん荘  鴨川つばめ
東京シャッターガール  桐木憲一
ミルクタイムにささやいて  酒井美羽
動物のお医者さん  佐々木倫子
新世紀エヴァンゲリオン  貞本義行
GS美神 極楽大作戦!!  椎名高志
絶対可憐チルドレン  椎名高志
辺境警備  紫堂恭子
グラン・ローヴァ物語  紫堂恭子
一番星のそばで  仙石寛子
うる星やつら  高橋留美子
めぞん一刻  高橋留美子
人魚の森  高橋留美子
一ポンドの福音  高橋留美子
軽井沢シンドローム  たがみよしひさ
なあばすぶれいくだうん  たがみよしひさ
くらしのいずみ  谷川史子
おひとり様物語  谷川史子
彼女とカメラと彼女の季節  月子
つるつるとザラザラの間  月子
ブラック・ジャック  手塚治虫
火の鳥  手塚治虫
イエスタデイをうたって  冬目景
マホロミ  冬目景
デビルマン  永井豪
バイオレンスジャック  永井豪
あしたのジョー  ちばてつや
ガラスの仮面  美内すずえ
夏目友人帳  緑川ゆき
金魚屋古書店  芳崎せいむ
海街diary  吉田秋生
少年は荒野をめざす  吉野朔実
月下の一群  吉野朔実
星の瞳のシルエット  柊あおい
耳をすませば  柊あおい
小さなお茶会  猫十字社
ここはグリーンウッド  那州雪絵
星は、すばる。  日渡早紀
ぼくの地球を守って  日渡早紀
ファミリー!  渡辺多恵子
はじめちゃんが一番!  渡辺多恵子
EDEN  遠藤浩輝
銃夢  木城ゆきと
機動警察パトレイバー  ゆうきまさみ
究極超人あ~る  ゆうきまさみ
音匣ガーデン  山口美由紀
おひさまの世界地図  山口美由紀
エイリアン通り  成田美名子
CIPHER  成田美名子
ALEXANDRITE  成田美名子
NATURAL  成田美名子
うしおととら  藤田和日郎
夜の歌  藤田和日郎
炎の転校生  島本和彦
吼えろペン  島本和彦
監督不行届  安野モヨコ
荒野の天使ども  ひかわきょうこ
彼方から  ひかわきょうこ
ナナマルサンバツ  杉基イクラ
月影ベイベ  小玉ユキ
ライジング!  藤田和子
るんるんカンパニー  とり・みき
クルクルくりん  とり・みき
きみといると  かがみふみを
OZ  樹なつみ
地球へ…  竹宮惠子
あどりぶシネ倶楽部  細野不二彦
ギャラリーフェイク  細野不二彦
部屋においでよ  原秀則
のだめカンタービレ  二ノ宮知子
DRAGON BALL  鳥山明
風の谷のナウシカ  宮崎駿
はいからさんが通る  大和和紀
サード・ガール  西村しのぶ
彼氏彼女の事情  津田雅美
日出処天子  山岸凉子
美味しんぼ  花咲アキラ
ドカベン  水島新司
野球狂の詩  水島新司
釣りキチ三平  矢口高雄

今さらですが「TARI TARI」を語ります その6

TARI TARIの主要キャラについて、一人ずつ取り上げてきましたが、その最後を飾るのはウィーンです。ウィーンというのは本名ではなくあだ名なのですが、本名の方は作中でもちらっとしか出てきません。
本名は前田敦博といい、6歳から18歳までオーストリアのウィーンで過ごし、高校三年生の初夏に日本に戻ってきたという設定です。彼の亡くなった祖父がお金持ちだったようで、祖父が会社に寄付したものを借りているという家は、鎌倉文学館がモデルになっています。鎌倉文学館は、元前田侯爵家の別邸ですから、彼の名字はここから採られているのかもしれませんね。

物語前半のウィーンは、変な日本ガイドを読んで勉強したせいで妙な勘違いをしていたり、来夏に嘘八百な話を信じ込まされたりと、どちらかというとボケ担当のムードメーカー的な描かれ方をしていました。ガンバライジャーという戦隊物の番組が好きで、そのフィギュアを大切していることや、ヤンという少年に手紙を書いて近況を報告していることなどは描写されていますが、彼自身にやりたいことがあるようでもなく、大智や来夏にひっぱらっれる形で、面白そうと思うことにつきあっているという雰囲気でした。人のやる気に素直に反応して、自分もやる気になってしまう気の良さが、彼の魅力の一つではあるのですが。
彼とヤンの関係が明かされたり、彼の好きな戦隊物の話がメインになったりした、いわゆる「ウィーン回」は、合唱時々バドミントン部が商店街の宣伝のためにご当地ヒーロー「ショウテンジャー」のバイトをしたエピソード(第9話・第10話)なのですが、僕の中でウィーンへの好感度が跳ね上がったのは、白祭の準備が始まってからですね。
大智の時に少し触れましたが、白祭で彼らが演じることになった歌劇のために、ウィーンが小道具を作ることになります。しかし、白祭が学校の都合で中止になり、彼の作った小道具も学校によって処分されてしまいます。ゴミ集積場まで探しに行きますが、時すでに遅く、残骸が回収できたのみ。白祭が中止になったイライラも重なって、大智や来夏が言い争いを初めてしまうのですが、そこでウィーンが突然歌を歌い出し、その場の刺々しい雰囲気を変えてしまいます。何度も諦めずに立ち上がる…という歌を即興で歌うだけでなく、小道具を探してくれたことに感謝の言葉を言うウィーン。その言葉で、またみんなの気持ちが前向きになっていきます。
その後も小道具を作り直すのに精力を傾け、部室で寝てしまってぐったりしているウィーンの姿は、妙にいじらしかったです。

ちなみに、ウィーンの声を演じた花江夏樹さんは、この作品で初めてレギュラーキャラクターを演じたそうなのですが、その後「凪のあすから」の先島光、「アルドノア・ゼロ」の界塚伊奈帆と僕の好きなアニメで主役を務めています。好きな作品で知った声優さんが活躍しているのを見ると、なぜか嬉しいものです。

今さらですが「TARI TARI」を語ります その5

9月6日(土)に、TARI TARIのトークショーが新宿でありました。僕は仕事の都合で参加できなかったのですが、ツイッターでトークの内容を投稿してくれる人がたくさんいるおかげで、トークの概要は知ることができました。
このトークショーでは新たな発表が2つありました。1つは12月にBlu-ray BOXが発売になり、新曲に合わせた約7分の新作ショートアニメが収録されるということ。もう一つは、TARI TARIで新しい企画ができないかキックオフミーティングが行われたということです。新企画については何か具体的な決定があるわけではないようですが、個人的には劇場版を期待したいところです。

さて、今回は田中大智の話。
彼は白浜坂高校唯一のバドミントン部員で、来夏たちの勝負に負けてしまったために人数合わせで合唱部に入ります。彼はバドミントンで世界選手権に出場することを夢見ており、実際に高校の全国大会で8位に入賞する実力の持ち主でもあります。ただ、あまりにバドミントンに熱心なために親しい友人もおらず、空気の読めない発言をすることも少なくありません。それで来夏や和奏に罵られるシーンもありました(笑)
そんな彼ですが、転校生のウィーンの世話を先生に頼まれたことで彼と親しくなり、合唱時々バドミントン部に入ることで来夏・紗羽・和奏と親しくなりということで、次第に仲間といる楽しさを知っていきます。
終盤、学校の都合で中止になってしまった文化祭を自分たちだけでやろうとするエピソードがあります。それまでいじられキャラの様相を呈していたウィーンが小道具の作成に思わぬ才能を見せ、大智は何か自分にもできないか焦り始めます。美術部に背景の描き方を習いにいったり、裁縫部に衣装の縫い方を習いにいったりするのですが、不器用な彼は当然うまくこなすことができません。しかし、不器用だけれでも一途な姿を見た周囲の人々が彼に協力を申し出てくれ、最初は合唱時々バドミントン部だけの活動だった自主的な文化祭が、他の部を巻き込んでの催しになっていくわけで、結果的に彼の果たした役割は小さくありません。
大智は最後にはスポーツ推薦で大学に進学するわけで、バドミントンに一途な点は最初から最後まで変わりのないのですが、そう考えると彼なりの変化があったのだな…とわかります。
もう一つ、彼の作中の大きなトピックスといえば紗羽との関係ですね。
最初は大きな舞台に立つことへの憧れと、彼女の夢を「かっこいいな」と認めてくれたことから、紗羽の方が大智に好意を持ったようです。しかし、人付き合いになれていない大智は、始めは紗羽をあまり異性として意識していないようでした。劇の背景を手伝ってくれることになったハマチの頼みで紗羽の写真を撮ることになった彼が、改めて紗羽の魅力に気づく、というのも彼らしいエピソードです。
TARI TARI唯一のカップルとしてやっかみを受けやすい立場にある彼ですが、ネットの反応を見る限り、男性陣の受けもよいようです。新作では、彼と紗羽の恋が成就しているとよいな、と思うのですが、どうなるでしょうか。

今さらですが「TARI TARI」を語ります その4

今回は紗羽(さわ)の話。
紗羽の家は、北鎌倉にある浄智寺がモデルなのですが、アニメでは湘南江ノ島駅から山側に入った辺りにある設定となっています。

彼女が合唱を始めたのは、来夏が合唱部を作るのに人数が足らなかったからで、特に歌が大好きという雰囲気ではありません。でも、来夏を応援しようという気持ちはとても強く、第二話でアクシデントで合唱部メンバーがそろわずに棄権しようとした来夏に「あんた、これだけの人を巻き込んどいて何もしないで帰る気?」と怒ったのは彼女でした。第4話でコンドル・クインズの歌に圧倒されて歌うことを忘れそうになった来夏に「ファンクラブで満足なら、わたしもう合唱部やめるからね!」と叱咤したのも彼女です。
とはいえ、田中&ウィーンとの自主練習で、最初にファルセットができるようになったのも彼女で、来夏につきあってるだけだからと手を抜くような性格ではないのですね。
彼女は馬が好きで騎手になる夢を持っています。バドミントンで日本代表になることを夢見ている田中とは、大きな夢を追っているという点で気が合い、TARI TARIで唯一恋愛要素がからんでくる部分でもあります。

ところが、騎手の学校に入るのは体重や身長の制限があって入学を諦めざるをえない状況になり、中盤は気持ちがすさんだり、落ち込んだりする場面が目立つようになります。
自分たちを見下す言動をする声楽部に対してだけでなく、「少し距離を置いたら」とアドバイスした和奏にも「和奏はいいよ。音楽に戻ってきて、いま続けてるからそんなことが言えるんでしょ!」と声を荒げてしまいます。
この辺りの和奏と紗羽のやりとりは、お互い自分の傷をさらけ出した感じで、なかなかつらいものがあります。
「歌で、今でもお母さんとつながってる。でも、もし、もう一回お母さんに会えるんなら、わたし、音楽をやめてもいい。けど、それはもう叶わないから」
「あきらめなくていいことまであきらめたくないから、4人でも歌います。でも、紗羽が来てくれたら、とても心強いです」
前者は直接言葉で、後者はメールで和奏が紗羽に送った言葉です。笑顔を取り戻した和奏だけれども、諦めざるを得ないこともあるわけで、諦めなければいけないことと諦めてはいけないことを、逃げずに見極めることを、和奏は紗羽に伝えたかったのでしょう。
前半は、和奏と来夏、来夏と紗羽という組み合わせで描かれることが多かったのですが、この辺りから和奏と紗羽のつながりが一段と深くなったような気がします。

さて、日本で騎手の学校に入るのをあきらめた紗羽は、最終的には、入学に身長や体重の制限のない外国の学校への入学を希望することになります。
外国への留学や上京で友達と離ればなれなってしまうというシチュエーションは、漫画でもアニメでもよく見かけますが、TARI TARIほど前向きな気持ちで旅立つ友人を見送った作品は珍しいのではないでしょうか。それは、彼女らの歌が「今の自分」のものでありながら、自分たちを新しい世界へ向かわせるエネルギーにもなるものであるからなのだと思います。
この作品の中で挿入歌として使われる「心の旋律」という曲があります。和奏の母、まひるが高校時代に作った歌なのですが、その中にこんな一節があります。「そしてまたどこかで/君に届いたら/思い出して欲しい/輝く笑顔で過ごした日々を」この歌も、今の自分だけではなく、未来の自分への応援歌にもなっている。過去と現在と未来。その結びつきがとても強く意識されたストーリーになっているのが、TARI TARIの魅力の一つだと思います。

今さらですが「TARI TARI」を語ります その3

今回は和奏(わかな)の話。
橋本監督は、雑誌のインタビュー等で「TARI TARIは五人が主人公」と話されていますし、確かに五人それぞれの見せ場があるわけですが、物語が和奏の「行ってきます」で始まり「ただいま」で終わることを考えると、やはり和奏がメインヒロインと考えてよいと思います。


ちなみに、冒頭の「行ってきます」ですが、この時には父親とちょっとしたことで言い争いをした後なので、「こんな怒ってる時でも挨拶するのか」と思わせるのですが、これが非常に重要な伏線になっています。
この「行ってきます」の意味は第5話で明かされるのですが、それによって、これまで和奏がどんな気持ちで毎日を送ってきたのか、痛いほどにわかってしまい、とても切なくなります。
一つの大きなエピソードや、印象的な台詞や、絵の見せ方で心情を描く描き方も好きではありますが、さりげない伏線があり、その意味に気づいた時にそこに隠された心情が垣間見えるという描き方は、もっと好きなのです。
それが「日常の中にある=常に意識されているものである」ということ、本人が「主張」するのではなく「思わず出てしまうものである」ことが、より心情を印象づけるのだと思っています。
この辺り、僕が「日常の謎」と呼ばれるジャンルのミステリが好きなことと関係があるかもしれません。


さて、「その1」でも書いたように、和奏は五人の中で最も音楽に対して関わりのある生徒として描かれています。
彼女の母親は白浜坂高校合唱部のOGで、合唱部の全国優勝に貢献しただけでなく、卒業後にもコンドル・クインズに楽曲を提供して大ヒットするなど、音楽の才能に恵まれた女性として描かれます。
幼い頃から母親の歌声を聞いて育った和奏も、音楽が好きな少女に成長しますが、音楽科の受験のプレッシャーから「音楽は楽しむもの」という母親の考えに反発し、ぎくしゃくした関係になってしまいます。ちょうど彼女が受験を終えた頃、母親は病気のために亡くなってしまうのですが、最後まで母親に謝れなかったことや一緒に曲を作る約束を果たせなかったことを後悔し、歌うことの意味を見失ってしまうのです。
そんな彼女が、どうやって歌うことの楽しさを取り戻していったのか。それは、合唱時々バドミントン部のメンバーとの関係や、父親、紗羽の母親、コンドル・クインズといった大人達が彼女と母親をつなぐ役目を果たしてくれたことなど、さまざまなつながりがあったからこそです。
迷っている時、沈んでいる時の心は、そう簡単に動くものではありません。音楽を捨てようと思ったり、捨てきれなかったりと迷う和奏の気持ちをていねいに描き、そして色々な結びつきの中で彼女の音楽への気持ち、母親への気持ちが前向きなものに変わっていく様子を描いたからこそ、和奏が初めて歌う第6話のラストが印象的なのです。
そして、後半。それまで周りに引っ張られていた和奏が、今度は周りの人を引っ張る役目を果たしていく。そこに、彼女の大きな成長が見てとれます。


ちなみに、彼女の家は江ノ島でお土産屋さんを営んでいるという設定です。奥津宮の近く、稚児ヶ淵に降りる階段の手前にある「あぶらや」というお店がモデルです。
店頭には彼女の似顔絵を描いた黒板が置かれ、レジ前にはTARI TARIグッズがさりげなく並べられたりしていますので、江ノ島に行った際には、ぜひ立ち寄ってみて下さい。

今さらですが「TARI TARI」を語ります その2

あまりきっちり章立てを考えているわけではないのですが、今回は来夏(こなつ)の話です。

来夏は「合唱時々バドミントン部」の発起人であり、他のメンバーを部に引きずり込んだ張本人です。
そういった役目を担ったキャラクターにありがちな「元気がよくてかわいい子/単純でわかりやすい子」(高橋先生談)なのは間違いないですし、突飛な行動も多いのですが、それだけでは語れない面もあります。

彼女は、二年生の時の合同音楽会で緊張のあまりひどい失敗をしてしまい、それから一年近くの間、歌わせてもらえずピアノの譜めくりを担当しています。が、顧問と決定的に対立して「これでは歌わないまま高校生活が終わってしまう」と、別の部を立ち上げることを決意するのです。
緊張しやすい性格を克服するために駅前の広場で歌う練習をしたり、一年近くも譜めくり役を続けてまで部に居続けたり、そもそも普通科の生徒であるにも関わらず音楽科の生徒ばかりの声楽部に所属していたり、これまでも色々な努力を続けてきたのでしょう(漫画版では音楽科を受験したけど合格できなかったというエピソードも入っています)。
彼女の音楽の原点は、小さい頃祖父と一緒によく聞いたというコンドル・クインズの歌で、昨日や今日、合唱を始めたというわけではありません。
しかし、それでも彼女は自分が音楽の才能に恵まれていないことを自覚しています。彼女が歌いたいのは自分が歌を好きだという気持ち、歌を歌うのが楽しいという気持ちを抑えきれないからで、自分を見下している顧問(教頭)や声楽部のメンバーには対抗心を持っているものの、プロの音楽家になりたいとか大会で優勝したいとか、そういう野望を抱いているわけではありません。
この作品の最終回で大学に進学した後の来夏の様子が少しだけ出てくるのですが、そこでも彼女は歌ではなく、他の活動を始めるような描かれ方をしています。
歌うことに迷うことの少ない彼女が、歌うことを忘れそうになる場面が二度あるのですが、そのうちの一つがあこがれのコンドル・クインズと出会い、彼らの歌を生で聴く機会に恵まれた時でした。歌う側ではなく、聴く側へと意識がいってしまうのですね。
しかし、その時には紗羽(さわ)の一喝とコンドル・クインズのメンバーたちからのアドバイスで、ささやかながらも自分たちの舞台を手に入れる道を選ぶことになります。
大きな舞台でなくても、専門家としてその道を究めることができなくても、自分たちのために歌うこと、それが彼女たちが選んだ道です。ある意味、アマチュア賛歌ともとれるでしょう。

これは全く個人的な事情なのですが、僕は大学時代に小説の同人誌を主宰していました。こうしてブログに文章を書いて発表しているくらいですから、自分の考えを文章の形にして発表したいという気持ちは今でも失っていませんが、「TARI TARI」を見て以来、もう一度小説も書いてみようかという気持ちになっています。
さらに、もう一つの趣味である写真でも、この作品に背中を押されるような形で、公募展に出展するようになりました。
第1回の記事で「『行動』になってしまうことの方が多かった」と書いたのはこの辺りです。
そういう意味で、僕にとってこの作品は、大きな意味を持つ作品になってしまったのですが、和奏(わかな)のエピソードだけではこんな気持ちにならなかったはずです。

さて、話を来夏に戻しましょう。
和奏が母親との約束を果たせなかったことを後悔している時に、来夏はその気持ちをそれとなく察して、自分も祖父との約束を果たせなかったことを話します。約束を果たせなかったからこそ、悔しいので、祖父のことをいつも思い出すのだと、後悔を前向きな気持ちに変える視点を示してくれるのです。
しかも、それが、和奏の話とは関係なく、自分の昔話を単に紹介しているのだ、という感じで。
紗羽の悩みに対しては的外れな心配をしたりもしているのですが、押しが強いようで、実は細かな気配りもできる子なんですね、来夏は。

今さらですが「TARI TARI」を語ります その1

「TARI TARI」は2012年7月から9月にかけて放送されたTVアニメです。
放送終了から間もなく二年になろうとしていますが、僕の中では未だに反芻されている作品です。
実は放映中にはブログの記事も書きませんでしたし、ツイッターでもほとんど感想をつぶやいていません。分析的に感想を述べるというよりは、どちらかというと触発されて「行動」になってしまうことの方が多かったですし、この作品の良さなんてのは「見ればわかるだろう」くらいの気持ちでいたわけです。
しかし、二年も経ってだんだん冷静に作品を振り返ることができるようになったり、他の作品(アニメだけでなく漫画や小説なども)を見ている時に「でもTARI TARIでは~だったよな」などと思ってみたりしているうちに、この作品の好きなところが段々わかってきたような気がするのです。

「TARI TARI」は非常に大雑把な分類をすると「部活物」の作品です。声楽部を退部した来夏(こなつ)が音楽科から普通科に転科してきた和奏(わかな)や友人の紗羽(さわ)を誘って合唱部をつくる、という流れで始まります。最低五人集めないと部として認められないことから、男子生徒二人(田中&ウィーン)を巻き込むエピソードもあります。

部員集めのエピソードは部活物のアニメや漫画では古典的なものですが、「TARI TARI」が特異的なのは、集まった五人のうち、本当に歌を歌いたいと思っているのが来夏と和奏だけだ、という状況です。
普通、この種の物語では、これまで活動に興味のなかった相手が何かをきっかけに一生懸命になったり、別のことに夢中になっていた相手が活動へと興味の対象が移ったりすることが多いのです。が、その変化があまりに唐突であったり、心情の描写が浅かったりすると、僕はあまり共感することができません。

「TARI TARI」の場合には、来夏と和奏の二人には、歌にまつわるエピソードをきちんと用意し、彼女らがどう歌と向き合っていくのかをしっかり描いています。何しろ来夏が第1話で和奏を誘ってから和奏が歌うまで6話もかけているのですから。
それ以外の登場人物に対しては、無理に歌に気持ちを向けようとしない。でも、それは決して歌の存在が軽いわけではないのです。彼らが何かと向き合う中で感じているものを、歌という形で表現することで、迷いに立ち向かうことができる。歌のみが彼らの全てではないけれど、歌うことで出来ることもある。「~たり、~たり」というタイトルが示す通り、迷いながら進んでいく彼らの生き様が、まさしくこの作品のテーマでもあるのです。

1回でまとめるつもりが、まとまりきれませんでした。和奏・来夏にとっての歌の意味、田中にとっての合唱時々バドミントン部、紗羽と和奏・来夏の関係、ウィーンの存在感などなど、書きたいことがたくさんあるので、シリーズ化する予定です(笑)。

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