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カテゴリー「映画・テレビ」の記事

高山市合併10周年を記念映画「きみとみる風景」

映画「きみとみる風景」を新宿K's cinemaにて見てきました。
この映画は高山市合併10周年を記念して、地元製作委員会が中心となって撮影された映画です。

公式サイトはこちら

「高山を離れ、よその地で頑張っている家族や知人が『久しぶりに高山に帰ってみようかな』と思ってくれるような」「縁あってよその地から高山に移り住んだ方から故郷へ『こんな高山でがんばっているよ』を伝えられるようなそんな映画を作ってみたい」というコンセプトで作られた映画(HPより)なので、高山に住んでいるわけでも、高山出身でもない人間が見て楽しめるものか、正直不安な部分もあったのですが、それでも、充分楽しめる映画であったように思います。

「きみとみる」という言葉がタイトルにあるように、単に「風景の美しさ」「町並みの美しさ」を記録したものではなく、幼い時に体験した「誰かとの記憶」が、今を生きる大人にとって、これからを生きる子供にとって、大切なものになるのだというメッセージが込められた映像だったと思います。

もちろん、手放しに褒めるのは躊躇われる部分もあります。
幼い頃に少しだけ高山に住んだことがあるけれども、特に高山に思い入れを抱いているわけではない写真家が、この物語の主人公です。
彼女に声を掛け、高山の良さを理解してもらおうとする人物が登場するのですが、僕から見ると彼の行動は無遠慮すぎますし、それに抵抗を感じながらもついいいなりになってしまう主人公の気持ちは、もう一つ理解できないところでもあります。「故郷を持つ人間と持たない人間」「人に心を開けず人を撮るのが苦手な写真家が人を撮れるようになる」という対比や変化は、わかりやすくはありますが、そんな単純なものではないだろうという気持ちもあります。

ただ、「観光客」というにはしばしば高山に足を運び過ぎている自分の経験からして、高山の方々が「部外者」であるはずの我々に見せる屈託のなさは、確かに僕らに安心感をもたらし、「また高山を訪ねてみたい」と思わせるのに値するものだったりするのですよね。

僕が映画を拝見した23日には、監督や高山市の企画の方、撮影にも関わったNPOまちの縁側育み隊代表の方のトークショーがあったのですが、その中で「これからの観光は小さなコミュニティの集合という側面があるのではないか」(表現はずいぶん違うと思います)という意味のことをおっしゃっていて、なるほどそれは正しいなぁと思いながら聞いておりました。
そんなわけで「ちょっと強引過ぎるだろう」とは思ってもそれが「良くない」とは思えないところが、自分自身あるのですね。
主人公のコミュニティへの溶け込み方がもう少し緩やかで自然ならば、彼女を助けようと思う彼の気持ちがもう少し穏やかで性急なものでなければ、もっと素直に映画を楽しめたかも、というのが正直な感想です。

「私の男」

7月1日横浜ブルク13にて観賞。
なお、この記事は映画・小説ともにネタバレを含みますので、未見・未読の方はご注意下さい。
公式ホームページは、こちら
モスクワ国際映画祭で最優秀作品賞・最優秀男優賞を受賞というニュースが流れた直後でしたので、観客の数は多く、平日の昼間であるにも関わらず80人ほどの観客がいました。ざっと見た所、年齢層も性別もまちまち。ただ、エンドロールが流れている時に席を立つ人が多かった(最近の映画館では珍しい光景だと思います)ので、ふだんあまり映画を見てない層が見に来ていたのかな、とは感じました。
なお、桜庭さんの小説は「GOSICK」「赤朽葉家の伝説」「青年のための読書クラブ」「荒野」などは読んでいますが、映画を見た時点では原作は未読でした。
「映画を見た時点では」と断りを入れたのは、映画のラスト近くの流れがどうも理解しきれなかったので、すぐに原作を購入して補完したからで、これを書いている時点では原作を読了しております。

物語の序章は北海道南西沖地震のシーンから始まります。まだ幼かった花の視点で映像が作られており、何が起きているのかよくわかっていない花の心理を反映するかのような、淡々とした俯瞰的ではない映像の中に、そこで起きている冷徹な事実が浮かび上がってくる画面構成になっていました。モノローグがあるわけでも、説明的な描写があるわけでもないのに花の孤独と不安とが伝わってくるような映像で、序盤にも関わらず「この映画は見に来て良かったな」という感想を抱いたくらいです。

場面が変わり、中学生になった花と養父の淳吾が暮らす紋別の様子が描かれます。この場面では、淳吾の恋人である小町の視点からの映像が多いな、と感じていました。
一見微笑ましく見える花と淳吾の親子関係の中に不穏なものを感じる小町の視点を通して、見ている側も「隠された秘密の不穏さ」を共有できた感じです。

花が高校生になった場面では、いよいよそれまで隠されてきた花と淳吾の関係があからさまに描かれます。隠されてきたといっても、これまでにそれを匂わせる場面が描かれてきたので唐突さは感じられず、その辺りの流れは良かったと思います。原作では淳吾の側にも花を求める理由が描かれていますが、映画では花が淳吾を求める心情の方に描写を絞っており、その象徴として「血」や「指」を使っている(この後の場面でも)のも効果的だと感じました。
映像の「質」としては、この辺りから微妙に変わってきており、個人の視点を感じさせる映像よりも第三者的な視点の映像が多くなってきた感はありました。ただし、この後の場面でも要所要所で「個人視点的描写」は使われており、個人的にはそういうカットの方が好きです。

二人の秘めた関係と、それを知ったために殺されてしまった二人の人間。それが語られる辺りから、二人の関係の閉鎖性やいびつさを暗示する描写が多くなっていきます。二人の抱える「秘密」が増え、それが二人にとっても「罪」と感じられることであるのですから当然といえば当然です。「他人には理解されないけれども二人の中では共有されている幸せな世界」からの変化が、二人の暮らす部屋の描写や、淳吾の言動に表れてきます。
最初に「映画のラスト近くの流れがどうも理解しきれなかった」と書きましたが、その一つをこの辺りから感じ始めました。花が東京で就職するのですが、その就職先での服装を見ると彼女のつらい「現実」とは大きなギャップがあるのです。何となく「逃れたい」と「離れられない」の狭間にあるためのギャップなのだろうなとは思ったのですが、なぜ逃れたいのか、なぜ離れられないのかという部分がうまく想像できなかったのです。
ちなみに、原作小説を読んでみると、その辺りの花の心情は実に見事に表現されていて、とても共感できたのですが。

ちなみに、淳吾の方は「離れられない」の比率が非常に高く、さらに原作小説と読み比べて、映画では意識的にその比率が高くされていることがわかりました。
花に好意を持った青年が花を自宅まで送ってくるシーンがあるのですが、そのシーンは小説と映画では大きく異なっています。
映画では、淳吾が花への執着を露わにし、青年が二度と二人の世界に関わりを持とうとは思わなくなるような行動に出ます。従って、映画では最後に花が結婚するのは別の青年になっています。
小説では、淳吾の方も「離れなければならない」という意識を持っており、青年にそれを託そうという意識が見えます。
ですから、映画の方では花も最後には淳吾に対して迷いながらも「決別しなければ」という意識の方が強い様子であるのに対して、小説では最後まで二つの気持ちの間で揺れ動いているのです。

個人的には、映画の方は淳吾の「囚われ方」を強調して描いたために、ラストのバランスを崩し過ぎた感があります。もし、そのような描き方をするのであれば、彼の「囚われ方」が最も強かった先述のシーン(花を送ってきた青年のシーン)辺りで止めておいて、「この先この二人はどうなってしまうのだろうか」と見ている側に想像させるエンディングで良かったのではないかと思うのですが…。

ラストの部分では映画に対する不満を書いてしまいましたが、これまで書いたように前半部の映像は非常に魅力的でしたし、もう一つ、音の生々しさという点も良かったことを付け加えておきます。北の海の波の激しさや、流氷のきしむ音、二人の暮らす安アパートに響く電車の通過音。それに、ちょっと書きにくいですが淳吾と小町、淳吾と花の絡み合うシーンの音の生々しさ。
精神的な欠落を肉体的な感覚で補おうとする側面のあるストーリーにおいて、五感に訴えかけることは非常に重要です。「視覚」「聴覚」の刺激という点では、この映画は大いに成功しているのではないかと、そう感じました。

映画「東京シャッターガール」

映画「東京シャッターガール」を初日舞台挨拶の回で鑑賞しました。
昨年、町田で開催された写真展「東京シャッターガール」に参加したのをきっかけに、様々な形で関わりあった作品で、今回も「登場人物が作品内で撮影した写真」という形で写真を提供させていただいております。
自分の名前がエンドロールに流れるという経験を、生まれて初めてしたばかりで、もう客観的には語れないものになってしまっているわけですが、そこを敢えて、努力して感想をまとめてみたいと思います。いつものことですが、作品の内容に触れるネタバレがありますので、未見の方はご注意下さい。

映画は、三編の短編映画からなるオムニバス形式です。
一本目、手塚眞監督「わたしは、シャッターガール」。主演は夏目あおいさん。
二本目、コバヤシモトユキ監督「写真って何?」。主演は田中美麗さん。
三本目、寺内康太郎監督「夢路!お前無茶すんなぁ!」。主演は藤井武美さん。

まずは、手塚眞監督の作品から。
僕が、最初「東京シャッターガール」でショートフィルムを作りたいという話を聞いたのは、今年の一月に池袋「あうるすぽっと」で開催された写真展の巡回展でのことです。
その時にイメージしたのは、漫画の舞台になった東京のあちこちを歩ちゃんが巡っていくイメージフィルムのようなものでした。
この作品の冒頭は、まさしくそんな雰囲気で始まります。
しかし、それはやがて「風」「ぬくもり」などテーマを感じさせる映像に変わってゆきます。写真がテーマの映画なのですが、この辺りの表現は写真的ではなく動画的。
それが歩ちゃんの「命を止めてしまう気がしてシャッターを押せない」という悩みにつながっていくのです。
そして、その悩みを解決するのも、動きがないようでいて、実はその中で色々な命が息づいている夜の街の景色であるわけで、その表現も動画的です。
動画をもってスチル写真を否定し、動画をもって肯定しているわけで、この辺りの表現は、やや分かりにくいかな、と感じました。僕もきちんと理解してる自信がないくらいです。
否定の方は完全に連続している動画で、どこを切り取ってもうまい瞬間を掴めないような映像でしたし、肯定の方はコマ送りの形で、静止の連続で表現しているわけで、その辺りが印象の違いを生み出しているのだと思いますが……。
この辺り「静止」が「動き」を殺してしまう映像とか、「一瞬」が「永遠」を象徴する場面とか、もう少しじっくり描いて欲しかったな…と思うところがありました。

次に、コバヤシモトユキ監督の作品。
「写真って何?」という非常に答の出しにくいテーマを扱っています。監督ご自身も写真家でいらっしゃるので、答の出ないテーマなのだということは重々ご承知の上で作られているのですが、僕の目から見ると、少々盛り込みすぎだな…と感じました。エンドロールの作り方を見ると、色々あって答が出ないというごちゃごちゃ感を、むしろ演出したかったのだとは思うのですが。
テーマ重視でストーリー展開は乏しいのかな…と思っていたら、ラスト近くであっと言わせるどんでん返しがありまして、そのストーリーに乗せる形でテーマを絞って方向性を示す方が、個人的には好みなのです。
屋上で歩ちゃんが、空に向かって必死でシャッター切りまくるシーンとか、すごい好きですし。
さらに、この作品の凄い所は、写真家のハービー山口さんが出演され、様々な写真家とか写真集について語って下さる所です。さきほど「答の出ないテーマなのだということは重々ご承知の上で作られている」と書いたのですが、それはハービーさんがラスト近くで歩ちゃんに向ける視線(いかにも若者を見守ってる風の)で語られていると思うのです。あのシーンもすごく好きで、あれがラストで良かったんじゃないかと思うくらいです。
そのハービーさんのお話にしても、「問いかけ」「絵作り」「ヒント」みたいな感じだったので、ストーリーに合わせて順番を変えても…とか思う部分がありました。
あと、この作品には小森さんという映画のオリジナルキャラがいるのですが、彼の使っているカメラのストラップが、僕が高校~大学時代に使っていたストラップの色違いだし、カバンも僕が大学時代に通学に使っていたもので、すごく懐かしい思いをしながら画面を見ておりました。

最後に、寺内康太郎監督の作品。
漫画の「城南島海浜公園」と「神田」の回のエピソードをうまく取り入れた構成で、タイトルとなった台詞も原作にあるのですが、こちらはかなりシチュエーションを変えてあります。
歩ちゃんの写真に夢中になると周りが見えなくなる、ある意味「危ない」性格を、かなりデフォルメして描いた作品ですが、実際に写真を撮ってる側の心理から言うと、なんか心当たりのあるような感じなのですよね。「あるある」と思いながらクスリとさせられることの多かった一作です。

最初の二作品がかなり重いテーマの話だったので、最後で明るくまとめた構成はなかなかですが、写真を撮ってない人から見て、最初の二話にどのくらい興味が持てたのか、気になる所ではあります。

映画「東京シャッターガール」のサイトはこちら
写真展「TOKYO SHUTTER GIRL:2」のサイトはこちら

映画「ジェリー・フィッシュ」

4103342110 ジェリー・フィッシュ
雛倉 さりえ
新潮社  2013-06-21

by G-Tools

映画「ジェリー・フィッシュ」シネマート六本木にて初日舞台挨拶の回を見ました。
映画の公式サイトはこちらです。
ここ数年R-18文学賞出身の方の小説にかなり傾倒しており、その関係から、原作は発売日に購入して読んでおりました。
その時の感想がこちら
今回、映画を見た時に感じたのは、小説を読んで僕が持っていたイメージと、映画に描かれたものがかなり違うな、ということです。
「イメージと違う」=「嫌い」と片付けるのは簡単ですが、そういうことではなく、なぜそのような違いがあるのかを考えた時に、かえって自分が小説で感じたものを、よりよく理解できたような気がしましたし、それだけ違いを感じ取れるということは、映画がそれだけの世界観を作り上げているということでもあります。
その辺りことを整理しておきたい気持ちが非常に強く、映画を見て帰宅してすぐ、このような記事を書いている次第です。
なお、この記事の内容には、小説・映画双方のネタバレを含みますので、ご注意下さい。また、作品の性質上「性的な話題」にもかなり触れますので、その方面の話題が苦手な方にもお薦めいたしません。映画と同様にR-18でお願いします。


さて、映画を見始めてすぐに感じたのは、僕が原作に感じた「閉じた世界」のイメージがあまり漂ってこないな、ということです。
見始めてしばらく経った時に思い着いた、その理由の一つは、語り手の視線です。
短篇「ジェリー・フィッシュ」(単行本第一章)の語り手は、宮下夕紀です。夕紀の一人称であるために、夕紀がどのように世界を感じているのかが表現されており、その世界観の中に叶子が存在しています。
小説では、夕紀の世界観について、次のような記述があります。
「他人なんてどうでもいい。音楽、写真、絵画、本。わたしは自分の世界を持っている。美しいもの、きれいなものばかりを集めた、わたしだけのひそやかな世界を」
そして、叶子についても
「叶子はすでに、わたしの世界の一部となっている。健気でうつくしい、愛すべきもの」
と書かれています。
一方、映画では、叶子の視点がかなり入ってきます。いや、むしろ叶子の側から夕紀にアプローチをかけ、夕紀が受け身的に二人の世界に引きずりこまれているような描写になっているため、叶子視点の方が多いと言ってよいくらいです。
最初のうち、夕紀は叶子のアプローチに対しておよび腰な気配すらあります。水族館で手をつなぐシーンや、その後学校で「一緒に帰ろう」と誘われるシーンでも。「寝癖ついているよ」という言葉を叶子がどう言うかも、それに対する夕紀の反応も、小説と映画では全く違っていると言ってもよいでしょう。
小説では、二人の関係は、夕紀にとっての「理想的な閉じた世界」であるのに対して、映画版では、叶子に誘われて入りこむ「異世界」なわけです。
夕紀にとって叶子が「異世界」なのだということは、二人の住んでいる場所に「丘の上の高級住宅地」と「工場や商店の多い下町」という異なった設定をしたことでも感じました。


そして、次に気になったのが、二人の少女に付加されたエキセントリックな設定です。
夕紀は、アダルトビデオをレンタルして鑑賞していたことをきっかけに店長と不倫関係となるものの、すでにそれに興味を失っている、という設定。叶子は、中学時代に先輩と肉体関係を持ち、堕胎の経験がある、という設定。いずれも、小説にはない設定です。
映画の二人には、男性との関係に倦んでいるという要素が見られます。つまり、二人が同性愛的関係に陥る理由として、男性的からの欲望に応えることでは、自分たちは幸せになれない、という要素が組み込まれているということです。
これは、夕紀が関係を持ったレンタルビデオ店の店長の見当違いの自説披露や、彼女が店をやめる時のごたごたにも表れていますし、夕紀にストーカーまがいのことをする謎のおじさんの無気味さにも表れているでしょう。
同じことは、叶子とその恋人である平井裕輔との関係にも言えます。平井裕輔と叶子の関係は、単行本では第二章の「果肉と傷痕」でさらに深く描かれているのですが、映画では全く違う描かれ方になっています。もっとも「果肉と傷痕」は単行本書き下ろしなので、撮影された時期を考えても、映画はそちらを参照せずに撮影されたのでしょうから、そういう意味では、仕方ないのですが。
映画では、裕輔は叶子と肉体関係を持つことに積極的で、最初に彼女の部屋にいった時にはポケットにコンドームをしのばせています。行為に及ぶ際の性急さや叶子への体位の要求など、男性的リビドーの象徴みたいなものです。それに対する叶子の冷めた表情との対比があるのですから、その狙いは明らかです。
「果肉と傷痕」では、むしろ裕輔の優しさに対して貪欲さを要求するのが叶子の側ですから、裕輔の位置づけは真逆です。裕輔と別れる理由についても同様。


第三の要素は「同性愛」についての描き方です。
これは、最初の項目でも触れたのですが、二人の閉じた世界が、二人にとって幸せな空間なのかというと、そうでない描かれ方をされているということも含みます。
周囲からの視線という意味では、バス停でのキスをクラスメイトに目撃されるシーンとか、裕輔に「気持ち悪いよ」って言われるシーンとかがわかりやすいですね。明らかに同性愛への嫌悪が描かれており、映画としては、それを二人と敵対する側に置くことで糾弾しようという要素があるのでしょう。
二人の側の問題としては、最後に二人で「エッチ」しようとするシーンが象徴的です。なぜその行為が途中で終わってしまうのかという理由が、映画と小説では全然違うわけです。
映画では、二人の肉体的な結びつきは、夕紀をつなぎとめておくためのものであり、叶子にとっては「自ら望んだものではない」ことになっています。これは、映画のラストに叶子が男性と結婚したと思われるエピソードを入れている点からも補足できます。
しかし、小説では「ほんとうは怖かったのだ、わたしも叶子も」「結局わたしたちは、非日常にはなりきれないのだ。どこまでも平凡な、ありきたりな少女たち」と記述されています。
つまり至高の世界はそこにあるのだけれど、勇気がなくてそこに飛び込んでいけない、という流れです。これは、単行本「ジェリー・フィッシュ」では繰り返されるモチーフで、第二章「果肉と傷痕」では、夕紀との至高の体験を忘れられない叶子が、裕輔に過激な行為を要求して、結果、その非日常性を怖れた裕輔との別れを迎えることになります。しかし、第四章「エフェメラ」において、裕輔は実姉への思慕を行動で表現することができずに苦しみながら、叶子と共に「日常」を越えられなかった自分を情けなく思う、という場面が描かれます。


そして、最後に、この小説中で最もエキセントリックな場面であると思われ、小説の帯にも使われている、お互いの首を絞める場面。
映画では、まだ二人の中がそれほど進展していない場面で登場します。叶子が、より大きな快感を得ることで、二人の仲を特別なものにしたい、というつもりで提案した雰囲気です。
しかし、小説でこの場面が登場するのは「一度目のキスはわたしたちの原点で、二度目のキスはわたしたちの頂点だった。あとに残されたのはゆるやかな坂道だけ」というフレーズの後です。
死というのは、そこで時を止めてしまうことなので、幸せの絶頂で死ねるのは、ある意味とても幸せなことです。
そして、その幸せをもたらしてくれるのが、自分の好きな相手であるのなら、それはさらに幸せなことになるでしょう。
首締めは、幸せの瞬間を永遠のものにする手段でもあるのです。
そして、もう一つ。「最後に、叶子に傷をつけたかった。かたちにのこるものじゃなくてもいい。いつか、彼女が忘れてしまってもいい。わたしの手で、叶子のからだに何かを刻みつけることができたら」という夕紀の台詞。
この前に入れ墨の話が出てきて、そこでも痛みと記憶の結びつきが述べられています。
痛みもやはり、「今この時」を永遠するための手段となるわけです。
お互いの首を絞めるという行為に、永遠化という意味があるからこそ、最後に二人の関係が壊れてしまう時「やっぱりあのときふたりで死んじゃえばよかったね」という台詞になるのではないでしょうか。


さて、一方的に、映画と小説を対比して小説の肩を持ってしまいましたが、冒頭にも書いたように、ここまで自分の意識を表面化させてくれた映画に対して、僕は「嫌い」という感情を持つことはできません。制作した側にとって有り難いかどうかはわかりませんが(笑)


そもそも「ジェリー・フィッシュ」という小説は、18歳という非常に若い作家のデビュー作ですし、映画「ジェリー・フィッシュ」の主演のお二人も、宮下夕紀役の大谷澪さんは映画初主演、篠原叶子役の花井瑠美さんは映画初主演。僕が映画の演出意図を理解できるだけの素晴らしい演技をしてくれたことは確かですし、トークショーでは新しい世界の入り口に立つ喜びと気概が伝わってくるよいコメントをしてくれました。


そういう意味では「小説に比べて映画は……」ではなく、映画も小説も、もっともっとたくさんの人の目に留まるようになって欲しいなと思います。
そして、感じたことをたくさん語って欲しいですね。


ちなみに、映画の映像はかなり「刺激的」です。自分が20代の頃だったら、映画館で見るのは無理だったかもしれないくらい。そういう方向でばかり話題になるのは嫌な気もしますが、なんとなく、書いておいた方が正直なような気もするので、書き添えておきます(笑)

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Qを見てきました。
今回の映画は、相当ネタバレを排除していて、映画館での予告編ではほとんど映像が出ませんでしたし、パンフレットもビニールかけがしてあるという始末。ツイッター上でも、公開後でもネタバレするような情報は、全く流れてきませんでした。
というわけで、僕も最初の部分をこうして長めに書いて、ネタバレ防止を意識しております。僕は、映画でも小説でも漫画でも、気に入った作品は何度も繰り返して味わう派なので、感想を書く時でもあまりネタバレを気にしないタイプなんですが、今回は流石に気を使っています。

というわけで、うっかり感想部を視界に入れてしまわないように、まず、僕とエヴァの出会いから書いておきましょうか。
僕がまだ梶ヶ谷に住んでいた頃、本屋さんである漫画が平積みになってるのを目にしました。それは、貞本義行さんの書いた漫画版「新世紀エヴァンゲリオン」の第1巻~第3巻でした。僕は、貞本さんの漫画を「少年チャンピオン」で読んで名前を覚えていたため、「あ、名前見るの久しぶりだな。アニメに関わってたんだ」と、とりあえず第1巻を買って帰ったのでした。そして、すっかりその漫画にはまってしまったのです。当時出版されていた第3巻まで、すぐに買いそろえました。
さて、その漫画のその帯には「'97春公開決定」という文字がありました。そう、「Death&Reverse」の公開直前だったのです。映画公開前の再放送を録画し、それを一気に見て、その勢いで映画を見に行きました。「Death&Reverse」は最終話までたどりついていない状態で見に行ったと記憶しています。
その後、録画したビデオ(当時はまだビデオだったのです)を繰り返し視聴し、LDを買い集め、パソコン通信のエヴァ会議室に常駐し、関連書籍を買い集め、エヴァファンを自認する一人となったわけです。
もちろん旧劇場版(air/まごころを君に)も見に行き、物語世界なのか現実世界なのか混沌とした、人類補完計画の映像に心を刺され、その傷はおそらく癒えていない状態で今もなお残っているのだと思います。
さて、新劇場版については、もちろん全て劇場で見ているのですが、かつて僕がエヴァに注いだ愛情ほどには、思い入れがないことも確かです。ブログを読み返しても、序と破についての感想は書いてないですしね。それは新作の完成度うんぬんの問題ではなく、初めに受けたインパクトが大きすぎたことの後遺症なのでしょう。
今回も、新劇場版を見た後に、妙にTV版を見返したくなりました。特に、第8話とか第16話とか第20話とか。

さて、これだけ前書きを書けば充分でしょう。
以下の内容にはネタバレを含みますので、ご注意下さい。

11月16日にTV放送で流れたQの冒頭を見た時、僕は「ゼーレが封印した初号機をネルフが奪回しようとしたんだな」と思いました。この冒頭は見ておいて良かったと思います。もし劇場でいきなりあれを見せられていたら、混乱度がさらに上がったでしょうから。
しかし、この予想は二つの点で外れていました。一つは「ゼーレVSネルフ」という対立ではなく、「ゲンドウVSミサト」の対立になっていたという点です。TV版でもミサトはゲンドウの目的に疑問をいだいてはいますが、それをより明確にした感じ。ゼーレの目指す人類補完計画とゲンドウの目的がどう違うのかは、今回も不明のままでした。「破」のラストでサードインパクトが止まったのは、カヲルくんがロンギヌスの槍を使ったからなので、ゼーレの側にネルフの都合で起こされたサードインパクトを阻止する狙いがあるのかなと思ったのですが、誰が初号機を封印したのかは謎のままです。
二つ目の「外れ」は、時間軸がサードインパクトの直後ではなく、14年後の世界だったこと。セカンドインパクトから15年後の世界が描かれたこれまでのエヴァと、サードインパクトから14年後の世界が描かれる今回のエヴァ。まがりなりにもネルフに対抗する戦力を揃えるにはそれくらいの年月が必要だったということでしょうか。
それにしても、ミサトさんやリツコさんやアスカたちが、どのようにサードインパクトを生き延びたのか、非常に興味があります。サードインパクトは、物理的な破壊であると同時に精神的な自我の破壊を伴うものです。何が彼女たちの自我を守り、そして14年間の間、ネルフを倒し初号機を奪い返す意志の源になったのか。その辺りのことが全く語られないのが、かなり残念です。それとも、来春公開されるという「:||」では、その辺りが明確になるのでしょうか? 僕はエヴァにおいては「何が起きたか」よりも「何を考えたか」に共感を覚える見方をしているので、どうしてもその辺りが気になります。

さて、今回もシンジくんは色々とかわいそうな目にあうのですが、かわいそうさはこれまでで一番だったのではないでしょうか。前作の最後で「綾波を助ける」という前向きな気持ちを見せたところはカッコ良かったのですが、目覚めてみたら周りからは敵視され、もうエヴァには乗らなくても良いと言われる。おまけに自分のせいでサードインパクトが起きたことをカヲルくんに教えられるは、助けたと思っていた綾波とも全然コミュニケーションが取れないはで、散々な目にあいます。旧劇場版のシンジくんも無気力でしたが、あれは補完計画中の映像がそうであったように、劇中の人物というよりは監督の投影像みたいな感じでしたから、心情が作品物語内で完結しているという意味では、今回の映画の方が完成度は高いと思うわけです。
それはカヲルくんとシンジの関係についても同じで、シンジがなぜカヲルに心を許すようになったのか、その過程がかなりていねいに描かれているなと感じました。ピアノの連弾のシーン(例の予告のピアノはこれだったのですね)や星を一緒に眺めるシーンは、とても良い場面だと思います。多少、ファンサービス的な雰囲気も感じたりもしましたが(これは、前作『破』のアスカやレイでも同じですね)。
そして、カヲルくんの最後。カヲルくんの予想していた事態とは違う状況になっていて、彼の計画が達成されないことを知る点は、TV版と似た展開です。ただし、違っていたのはアダムとリリスではなく、槍の方で、カヲルくんは第一使徒という設定のようです。TV版でもシンジがカヲルを殺すことになっていて、シンジがカヲルの死を「自分の責任」と感じることにつながるのですが、新劇場版ではシンジの罪をカヲルくんが背負って死ぬことになる図式となっており、シンジが自分の罪を自覚する要素がより強まっているのです。

ストーリー的には全く違ったものになっていますし、設定的にも必ずしも納得いくものばかりではありませんが、本質的な部分では意外と変わっていないというか、よりパワーアップしたものになっているな、という評価もできると思います。
壊れてしまった世界の中で、なぜ人は絶望せずに生きていけるのか…。新しいエヴァの物語には、そんなテーマがあるように感じます。それは、パンフレットの中で緒方恵美さんが語っておられたように、3.11を経験した現在の日本に生きる人間であれば、誰もが共有する思いなのではないかと思います。最終話において、シンジがどんな姿を見せてくれるのか、アスカやミサトがどんな気持ちを語ってくれるのか、非常に楽しみでなりません。

「コクリコ坂から」

横浜の109シネマズMMにて鑑賞。
平日夜6時20分上映の回でしたが、席は6割くらいの埋まり具合でしょうか。年齢層は30~40代くらいがメインですが、幅広く分布してそうな様子でした。
そういえば、スタジオジブリの映画をロードショーで見たのは初めてかもしれません。
舞台が横浜なもので、一応横浜市民としては、見ておきたいな…と。

僕は、ジブリの映画で好きなのは、「ラピュタ」「ナウシカ」「カリオストロ」「トトロ」の順で、最近のはあまり好きではないんですよね(アリエッティとポニョは見てないし…)。「千と千尋」や「ハウル」などは、テーマを高尚にしたいのかもしれないけど、その分抽象性が高くて分かりづらい感じだし、絵も細かく描きこみすぎで「アニメでここまで動かせる」というのを主張したくてやってるんじゃないかと思ったくらいです。
その点「コクリコ坂から」は主人公である海の心情(家族への思いと俊への恋)とカルチェラタン(学校の古い部室用校舎)の取り壊しをめぐる騒動という、古典的で具体的なテーマをていねいに描いたという感じで、好感が持てました。

「ていねいに」というのは、筋立てもそうなんですが、作画や音の演出面にも感じたことです。
作画は、背景はとても美しくかなり描きこんであるのですが、人物や乗り物などの「動く部分」は、かなりシンプルな感じだったと思います。ただ、例えば目の動きとか、体の重心の移動とか、そういう部分をきちんと描いて、美しい動きだなぁと感じた場面が多々ありました。
それから、音については、生活音のいれ方が素敵でした。というより、僕が幼い頃にはこの映画で描かれたような生活環境が残っていたので、聞き覚えのあるなつかしい音を聞いた、という感じです。マッチをする音とか、キャベツを刻む音といった「いかにも」な音だけでなく、木造住宅の廊下を歩く時の木のきしむ音なんかが印象的でした。
とはいえ、写実一辺倒の演出ではなく、全学討論会で俊が高笑いする場面やそれに続く乱闘シーンなどは、アニメ的にデフォルメされていて、「ラピュタ」でドーラ一家と親方が対決するシーンと重なりました。自転車やオート三輪が坂道を疾走していく時のスピード感や、大きな船がゆったりと海上を進んでいく重厚感などもふくめて、「ラピュタ的」な雰囲気を感じるシーンが多かったように思います。
ラピュタは「空」、コクリコ坂は「海」という違いはありますが、どちらも大きく広い場所であり、未知の世界を感じさせる場でもあります。バズーの父は空で亡くなり、海の父は海で亡くなっているという点も同じですしね。ラピュタはシータが空から落ちてきましたが、コクリコ坂は俊が屋根から落ちてくるとか…。

さて、学生たちの討論する内容や雰囲気は学生運動的な要素を感じさせて、それは僕たちの世代よりも少し上の世代になるのですが、カルチェラタンで活動する学生たちの「めいっぱい背伸びしてカッコつけてる感」が良かったですね。また、何度かある合唱の場面や、時計塔の鐘が校内になり響く場面など「場の一体感」を見事に描いていたと思います。
僕たちの世代もそうかもしれませんが、それ以降の世代の人間だと「周りが許してくれないなら、個人的に勝手にやるさ」という感じになって、自分たちの場を守ろうとか、自分たちのしていることの意義を周りに主張したり、わかってもらう工夫をしたりという努力を、しない可能性の方が高いのではないかな…と思います。それに、「自然体」がよいことで、「背伸びしてみせる」のは良くないことだ、という風潮も僕らの世代の特徴かもしれません。

僕は1966年の生まれですから、この映画の舞台である1963年には生まれていませんが、先にも書いたように、僕がものごころついた時には、まだこの時代の雰囲気が残っていました。オート三輪や二層式の洗濯機、木造校舎や買い物カゴ。また、劇中に出てきた「白い花が咲く頃」は、僕の父親の愛唱歌で、幼い頃にはよく聞かされたものです。
パンフレットで宮崎悟朗監督が書いていたように、高度経済成長期に生まれ育ち、青春時代はバブルの真っ直中という世代です。自分たちが無くしてしまったもの、けれどもどこかで憧れ続けてきたもの、そんなものが描かれた映画だったのではないか、と感じています。尤も「憧れ続けてきた」と感じるのは、バブルの時代の価値観にイマイチ乗り切れてなかった僕らのような「時代に乗り遅れた」人間だから感じることかもしれませんし、もう少し世代が上で、この時代をリアルに体験した世代だと「マイナス面を切り捨てて美化しすぎ」と感じるかもしれません。

さて、もう一つ、舞台としての「横浜」についても書きたいのですが、それはまた別の記事で。

劇場版"文学少女"

川崎TOHOシネマズにて鑑賞。公式ホームページはこちら

GWもほとんど休みなしで仕事です。本当はGW明けの休みの日にゆっくり見ようと思っていたのですが、色んな予定が目白押しで「ゆっくり」が不可能そうなのと、ネット上の評価が予想以上に良いのに背中を押されて、仕事帰りのレイトショーに行って来ました。
観客は30人ほど。20代後半と思われる男性が多く、予想よりやや客層が高めでした。

エピソードは映画の尺に合わせるために大幅に削られ、ストーリーもかなり変更されていましたが、劇場版を1つの完結した話としてまとめるには、これくらいやった方が良かったのではないかと思います。ストーリーの改編は、一本テーマが通った感じで、流れとしては悪くありませんでしたし。
千愛派とかななせ派とかの人は、存在感なくて不満かもしれませんけど(笑)
絵の雰囲気も良かったし、声も僕のイメージにはぴったりでした。もっとも、原作の方がシリアスとコメディの振幅が大きいですけど。映像の場合は、漫画や小説と違って画面がつながってるんで、振幅をそのまま再現するとバランス悪くなるんですよね。その辺りのサジ加減もよかったと思います。

それでも、いくつか気になる点はあります。
まず、心葉がこれまで美羽のことを気にしていたことを、もう少し匂わせておいて欲しかったなということ。もちろん4巻かけて伏線を張った原作には及ぶべきもないのですが、美羽のことがあったせいで、心葉は小説を書くことに抵抗がある(遠子先輩のおやつもなかなか素直に書けない)点を強調しておけば、ラストで心葉が小説を書こうと思った理由に説得力が出たのではないかと思います。
あと、プラネタリウムのシーンのラストは、美羽が浄化されすぎかな。まだ、歩き始めたばかりなんだから(精神的にね)もっとヨチヨチ歩きでいいではないかと。原作よりスッキリ系なのはいいんですが、あんまりスッキリしすぎると影の存在が軽くなってしまうんで。

あと、これは不満ではないのですが…
ラストの駅のシーン、「銀河鉄道999」を思い出しました。劇場版の方。ドアが閉まる前の○○から、走り去る列車を眺めるまでの一連の流れ…。あれはやはり少年の成長譚の王道です(笑)

というわけで、総合評価は決して悪くないのですが、人に薦めたいかと言われると微妙です。
文庫本5冊読むのに負担を感じない人にであれば、ぜひ原作の方を読んでもらいたいと思ってしまいます。
やっぱり、文章の味わい深さという点、登場人物の心のひだの部分の描写という点では、原作の方が上ですからね。

今日、本屋で…

今日、「のだめ」の24巻を買いに本屋さんにいったら、文学少女シリーズが平積みになってました。
5月1日から劇場版が公開されるのに合わせてなんでしょうね。
「見習い」の3冊目も30日に発売になるし、
コミックス版(美味しい噺)の2巻や関連書籍も何冊か発売される模様です。

文学少女シリーズは、去年の8月にはまって一気に読みました。
その時の感想はこちらの記事をどうぞ。
ライトノベルというジャンルが一般的になってから、初めて読んだライトノベルらしいライトノベルですが、
物語のテーマ性と構成力はなかなかのものだと思っています。
ライトノベルなんて…と思っている方にも、お薦めのシリーズですね。
もっとも、僕がそう思ったのは3巻目くらいからなので、1巻・2巻でイマイチと思った方は、
ぜひ3巻まで頑張って下さいませ。
暗い話が苦手という方は、短編集(恋する挿話集)からどうぞ。
「初恋」(ツルゲーネフの)が出てくる話と「赤いろうそくと人魚」の出てくる話と「ダフニスとクロエー」の出てくる話がお気に入りです。

ちなみに、劇場版の公式HPはこちら

「ルーキーズ」

TOHOシネマズ ららぽーと横浜 にて鑑賞。

僕は、ドラマは見ていないのですが、妻が時々見ていたらしく、続きが気になるので見たいとのことで付き合った次第です。
ドラマを見ていないということは、これまでのストーリーの流れやエピソードを把握していないということなので、それらをふまえて見た場合とは、ちがう印象になるかもしれませんが、一応、独立した作品として公開されているわけですから、それでもわかる内容ではないといけないだろうという立場で語っております。
こういう断り書きを入れるのは、僕が、この映画にあまりいい印象を持たなかったからです。なので、ドラマ以来のファンの方には、もしかしたら腹立たしい内容になってしまうかもしれないなぁと思ったわけです。

特に、ラストのメンバー一人一人が監督に別れの挨拶をする場面。何カ所か、きっとドラマのエピソードをふまえてるんだろうけど、自分にはわからないなぁと思いながら見ていました。

さて、僕がこの映画を見て一番感じたのは、「夢をかなえること」があまりに一義的に語られすぎているということです。
もちろん、彼らが甲子園出場を夢見て、それに向けて精一杯努力していることを否定するものではありませんが、夢を見ているのは、彼らだけではないはずです。彼らと対戦した高校の生徒たちも、同じように夢を見て、同じように努力してきたはずです。その努力は何も報われず、ニコガクの野球部だけの夢だけが唯一絶対のように語られることに、違和感を感じたわけです。

たとえば「タッチ」でも「H2」でも良いですが、主役のチームに対抗するライバルの存在が必ずあります。「タッチ」であれば新田くんや西村くんですし、「H2」では比呂と英雄がライバル同士ですが、栄京の小倉(控えのキャッチャー)や伊羽商の月形とか、他にも良いライバルがたくさん登場します。彼らは、お互いが夢にむかってどれだけ一生懸命かを知っていますから、自分だけが勝てるとは思っていないんです。思っていないからより努力するし、負けた時にも、相手を褒め称える勇気があります。
この映画の中で、笹崎高校について、川上貞治について、どれくらいのことが描かれていたでしょうか。単に、「俺のことを馬鹿にしやがった気にくわないヤツだ」程度ですかね。だからマウンドでいくら必死そうにしていても、何も同情の余地はないと? そういう風に考えてみると、「ルーキーズ」の中で描かれている「夢」が、いかに「独りよがり」で「排他的」なものであるかがわかります。

「甲子園の空の笑え!」(川原泉)とか「逆境ナイン」(映画版は変にシリアスしようとしているのでダメです。島本和彦さんのマンガの方)なんかとも、比べてみると色々と面白いことが書けそうなんですが、とりあえず、このくらいで筆をおさめましょう。

そういえば、登場人物の名前が、ぜんぶ実在の野球選手の名前になっているのは、面白かったです。ニコガクの関係者は、ぜんぶ阪神でしたね。安仁屋とか、僕が子供の頃の選手なんで、気づいてない人も多いかもしれません。

「サマーウォーズ」

109シネマ川崎にて鑑賞。
夜の時間だったこともあってか、完売のアナウンスが入る正真正銘の満席。
公式サイトはこちら

「エヴァンゲリヲン:破」を見に行った時に予告編が流れており、「時をかける少女」の細田監督の作品、しかも貞本義行さんのキャラクターデザインだと知り、ぜひ見ようと思っていました。

それで、実際に見た感想はと言えば…


恥ずかしい話ですが、都合3回泣きました…
亡くなったおばあちゃんの顔を思い出しました…
いい映画を見られて幸せでした。


と、これで終わっても良いかとも思ったんですが、
気を取り直してもう少し。

戦国時代から続く家柄の大家族の物語…なんていうと、家族愛を謳ったアナクロな物語を想像するかもしれませんが、決して家族を美化した物語ではありません。
うるさい子供ははしゃぎ回って大切なことの邪魔をするわ、先祖の昔話を語り出す叔父さんはいるわ、自分の好きな人を取られたと思って敵意を剥き出しにするマタイトコはいるわ、口うるさいおばさんはいるわ…という感じです。
そして、そんな前時代的な大家族との組み合わせは、「OZ」という名のバーチャルコミュニティ。
普通に考えると相反するような二つのシステムが、なぜか絶妙のコンビネーションで解け合い、不思議な世界観を醸し出します。
ネットの世界も、決して美化して語られるわけではありません。
そもそも、このお話はサイバーテロの話です。ネットに依存する社会の危険性が背景に存在します。
サイバーテロを続ける侵入者に立ち向かったキングカズマが敗れた時に、ネットの掲示版に書かれる情け容赦ない文句の数々、自分では何もできないクセに、追い詰められた時にカズマに頼ることしかできない無力な人々の群れ…。
けれども、最後に地球を救ったのは、家族を守ろうとする決意であり、家族に励まされた勇気であり、名もなき人々の団結の結果だったわけです。

夏希先輩の人となりをもう少し描いて欲しかったかなぁとか、最後の対決がなぜに花札?とか、気に入らない点がないとは言いません。
しかし、キングカズマのアクションを始めとしたネット上のバーチャルリアリティのカッコ良さ、古きよき日本の姿を思い出せてくれる美しいシーンの数々が、そんなものを吹き飛ばしてくれます。
何より、人と人とのつながりの大切さをしみじみと感じさせてくれるシーンの数々…それが血縁でも、友情でも、仕事の関連でも、また、ネットというバーチャルなものであっても……

ぜひ、たくさんの人に見て貰いたいと、自信を持って言える作品です!

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