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カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

映画「氷菓」

12月5日(日)横浜のブルク13で映画「氷菓」を見てきました。
このブログの記事を見ていただけると分かりますが、僕はもともと原作小説のファンで、2012年に放送されたアニメ「氷菓」も見ておりますので、それらとの比較という点を中心に感想をまとめてみました。
小説版、アニメ版、実写版のいずれの内容にも触れておりますので、ネタバレにはご注意下さい。


好きな小説が実写映画化・アニメ化されることについて、以前の僕はあまり嬉しく思っていませんでした。「氷菓」のアニメ化の時も、最初はメインビジュアルのポスターを書店で見かけて「古典部の4人が揃って下校? ありえん」とか思っていたものです。しかし、実際にアニメを見てみると、その出来はとても素晴らしく、それ以降、むしろアニメ化を歓迎すべき事態として捉えるようになったくらいです。
なぜ実写映画化・アニメ化に不満があることが多いかというと、時間的な制約から台詞や説明や場面そのものが省略されることが多く、下手をすると大きく改変されてしまうこともあるからでしょう。
アニメ「氷菓」良かったのは、場面や台詞の取捨選択の的確さ、動きや音声や音楽など「アニメならでは」の演出、改変した場合もその狙いが明確でむしろ作品の味になっていたことだと思っています。
今回の実写化に関しても、何かしら「映画ならでは」の部分があるならば良いなぁと思っていたのですが、試写会に参加された方や初日に映画を見た方の感想で、その「ならでは」の部分があると分かっていたので、かなり期待して臨みました。


今回の映画の一番の特徴は、えるの失踪した伯父「関谷純」にスポットを当てたことです。もの凄く省略した説明をしてしまうと、「氷菓」は失踪した伯父がまだ幼かったえるに伝えた言葉を探る物語です。もちろん、その推理が成功して物語が終わるわけですが、それはえるにとっても「過去を思い出すこと」であり「伯父の死を受け入れるための儀式」であり、それ以外の人にとっては「過去にそういうことがあったという事実の確認」に過ぎなかったのではないかと思っています。唯一、奉太郎だけが関谷純の苦しみに共感したのであり、だからこそ「氷菓」のタイトルに込められた意味に気づけたのではないかと。
しかし、この映画では「現在の視点」から過去の事実を紐解くという描き方だけではなく、当時のできごとを再現する映像を入れることで、関谷純の無念さを、そこに見ている人が共感できるような形で描きました。しかも1960年代の学生運動の実際の映像を入れることで今となって(特に若い人には)分かりづらいであろう当時の雰囲気も伝わりやすくなっていたと思います。これは「実写」でしかできないことです。


そして、関谷純の悲劇性を高めるために、さまざまな原作からの改変を行っています。
その1つは、関谷純の学生運動における役割を変えたことです。原作では、具体的な行動が書かれているわけではありませんが「名目上のリーダー」だとされています。「名目上」ではあれ「リーダー」という立場ではあったわけです。しかし、映画では「冤罪」とされており、理不尽さが増すことによって悲劇性が強調されました。2つめは、その「冤罪」を産むきっかけとして関谷純と糸魚川先生の間にエピソードを追加したことです。「優しい英雄」という原作にもある言葉を補強する形で、「優しい」に具体的な肉付けを行ったわけです。このエピソードは、冤罪を産むきっかけという実利的な部分だけではなく、糸魚川先生の罪悪感を強めるという心理的な意味も産みました。そのため、原作ではなぜ無くなったのか説明されていない「氷菓」創刊号は、彼女が真実を隠すために隠匿したことになっています。創刊号に何が書いてあったのかは説明されていないので、彼女が何を具体的に隠したかったのかは不明ではあるのですが。「氷菓」第二号にあった「憶えていてはならない」は原作では「偽りの話であるから」という意味だと思うのですが、映画では「忘れたいことだから」という意味も含むことになるわけです。その辺りの葛藤も映画の見せ場になっており、映画のラスト近くでは、それまで図書室に置いていなかった「氷菓」を、創刊号も含めて、糸魚川教諭が図書室に並べている姿が描かれています。それは「氷菓」に込められた関谷純の無念を彼女が改めて認識し、「忘れてはならないこと」「伝えなくてはいけないこと」と考えを改めた結果なのでしょう。
ちなみに「氷菓」第二号の序文(僕はこの序文がとても好きなのですが)の最後の一文が削除されていました。「いつの日か、現在の私たちも、未来の誰かの古典になるのだろう」という一節です。糸魚川先生が(これを書いた当時は郡山養子ですが)「憶えていてはならない」と考えたのであれば、「現在の私たち」は未来に残さないわけで、「古典」にはなり得ないだろうという考えからの改変なのではと思っています。


僕はこれらの改変が悪いとは思っていません。
先に書いたように「映画ならでは」の部分がないと、すでに十分な高評価を得ている作品を別の媒体で作り直す必要がないからです。そういった意味では、映画「氷菓」は十分に存在価値のある作品だと感じました。


ただ、見終えた後に多少の違和感があったことも確かです。
原作では、奉太郎が糸魚川先生に「俺が訊きたいのは一つです。関谷純は、望んで全生徒の盾になったんですか」と訊いてから先生の話が始まったのですが、映画ではその台詞(改変されてたかも)が糸魚川先生の話の後になっていました。そのため、奉太郎の推理がほぼ真実を言い当てていたことも、彼が何を知りたくて糸魚川先生を訪ねたのかもわかりにくくなってしまったようです。
僕は映画館でそのシーンを見た時に少し違和感を覚えました。そこまで関谷純の気持ちがわかっているなら、今更そんなことは聞かなくてもわかるだろう、という違和感です。
映画では、観客も、登場人物たちも関谷純に感情移入している場面なのに、そこであえてそれを聞くのは妙だなと思ったわけです。
原作では、糸魚川先生は過去を語る時に感情を見せていません。それは描写されていないという意味ではなく、感情を見せていないということが奉太郎の視点から何度も確認されているのです。そして、「氷菓」というタイトルに関谷純が込めた意味も、糸魚川先生や古典部のメンバーに気づかないことに奉太郎がいらだちを覚える場面もあります。そういう意味では「氷菓」は「口に出来なかった思い」「伝わらなかったメッセージ」の哀しみを描く作品でもあるわけです。
これは、後に続く〈古典部〉シリーズでも同様で、この作品の根底にあるテーマなのかとも思っています。
伝えたい気持ちを伝わるように描いたことで伝わらないもどかしさが前面に出なくなってしまったという点に、やや皮肉なものを感じないではありません。


他に奉太郎とえるのキャラクター性とか、細かい変更点の効果とかも書きたかったのですが、やや長くなりすぎましたので、またそれは次の機会に。

作品世界の年代感覚について考えたこと

昨年末の12月24日・25日に飛騨高山に旅行してきました。
ここ数年、年に数回ずつ訪れているお気に入りの場所ですが、その楽しみの一つに、高山出身の小説家・米澤穂信さんの小説に登場する場所のモデルを訪ねる、いわゆる「聖地巡礼」があります。
ことにアニメ化された「氷菓」(小説の方は〈古典部〉シリーズと呼ばれますが)では、実在の場所をモデルにアニメの作画が行われているため、街を歩くだけで、まるでアニメの世界にいるかのような気持ちにさせられます。
僕はこれまでに何度も高山を訪れていますので、モデルになった場所に行ってカット合わせの写真を撮るような形での「聖地巡礼」はもうしていませんが、今回、何度目かの「聖地巡礼」をしながら考えたことがありますので、それについてまとめてみたいと思います。

実は、今回の高山行きで、新たに聖地巡礼のリストに加わった場所があります。2015年12月12日発売の「野性時代」に〈古典部〉シリーズの新作「いまさら翼といわれても」の前編が掲載されたためです。「いまさら翼といわれても」には神山市文化会館が登場するのですが、その位置や外観は高山市文化会館をモデルにしたものと思われます。そこでさっそくその場所にも行ってみたのですが、雑誌に作品が掲載されたばかりであるだけでなく、まだ「前編」で作中の謎が解説されていないこともあり、まさしく「今」起きている事件であるかのような感覚を抱いて、僕はその場所に立ったのでありました。
しかし、その後、これまで何度も訪れた聖地を歩きながら、僕は文化会館を訪れた時との気持ちの落差を感じずにはいられませんでした。もちろん「慣れ」による感動の薄まりというような話ではありません。それは、アニメと小説との「年代設定」に関する落差についての問題でした。

そもそも小説〈古典部〉シリーズの年代設定は2000年です。彼らが高校二年生になった最新作でも2001年なのです。ですから、僕が小説を読む時には、2000年に存在した彼らの世界を、2016年にいる自分が体験しにいく、という感覚で読みます。このように、自分が現実にいる年代と、小説の世界の年代が異なることは、小説では珍しいことではありません。
例えば、米澤穂信さんが2015年に刊行された「王とサーカス」では作中の年代が2001年に設定してあります。〈古典部〉のように「刊行から時間が経過したから」という理由ではなく、作品としてその年代である必要があれば、現時点での年代にこだわらず作中年代が設定されるわけです。

しかし、アニメ「氷菓」の年代設定は放送が行われた2012年です。そして、僕は(あるいはネットの反応を見る限り多くの視聴者が)リアルタイムで進行している物語としてそれを捉えていました。Twitterでも「今日は○○が○○する日」あるいは「ちょうど今頃○○している時間」などという書き込みを僕自身もしていますし、多く読んでもいます。
その舞台となった場所に足を運んでいる時も「あの時に○○があった場所」という意識でいるのですが、それが1年経ち、2年経ちという時間の経過にともない「あの時」が次第に「過去」になっていたのだなぁというのが、自分の感じた違和感の正体でした。

発表されたばかりの小説を読んだ時には、先ほども書いた通り「リアルタイム感」が戻ってきます。作中の物語が「過去」なのか「リアルタイム」なのか、その辺りの感覚に「落差」ができてしまったということのようです。
小説を読む時には、作中の年代が過去であっても「今の自分がそれを垣間見ている」という感覚で読んでいる気がします。なのでそれほど「過去に起きたこと」という感覚がないのですね。
アニメの場合、「放送された時」が「リアルタイム」であり、時間が経つとその分だけ作品世界であったことも「過去」になっていくのかな、というのは今回気づいたことです。
もちろん、アニメでも放送時期と作中設定年代が異なるものもありますし、今回は「作中の場所を訪れる」という自分自身の経験も「過去」として認識されていること、ネット上での作品の扱いがやはりそれを「過去」にしていきやすいことなどがあり、一概に「アニメ」と「小説」の違いとはいえないかもしれません。
でも、今までに感じたことのないギャップだったので、それがどういうことなのか、まとめておきたかったのです。この件は、しばらく自分の中での宿題になりそうです。

akiraの100冊/小説編

2014年10月改訂版

ココロ・ファインダ  相沢沙呼
午前零時のサンドリヨン  相沢沙呼
蒼穹の昴  浅田次郎
鉄道員  浅田次郎
ひとめあなたに…  新井素子
あたしの中の…  新井素子
海の底  有川浩
〈図書館戦争〉シリーズ  有川浩
レインツリーの国  有川浩
骨を彩る  彩瀬まる
神様のケーキを頬ばるまで  彩瀬まる
いま、会いにゆきます  市川拓司
恋愛寫眞 もうひとつの物語  市川拓司
狐笛のかなた  上橋菜穂子
クラインの壺  岡嶋二人
博士の愛した数式  小川洋子
東京物語  奥田英朗
夜のピクニック  恩田陸
三月は深き紅の淵を  恩田陸
木曜組曲  恩田陸
天冥の標  小川一水
さがしもの  角田光代
魔女の宅急便  角野栄子
ななつのこ  加納朋子
はるひのの、はる  加納朋子
翼はいつまでも  川上健一
復活の日  小松左京
巷説百物語  京極夏彦
〈京極堂〉シリーズ  京極夏彦
邪馬台国はどこですか?  鯨統一郎
一九三四年冬―乱歩  久世光彦
ヘッドフォン・ララバイ  窪田燎
ふがいない僕は空を見た  窪美澄
〈グイン・サーガ〉シリーズ  栗本薫
〈魔界水滸伝〉シリーズ  栗本薫
優しい密室  栗本薫
仮面舞踏会  栗本薫
心中天浦島  栗本薫
青春離婚  紅玉いづき
赤朽葉家の伝説  桜庭一樹
青年のための読書クラブ  桜庭一樹
グローイング・ダウン  清水義範
開国ニッポン  清水義範
日本文学全集  清水義範
赤頭巾ちゃん気をつけて  庄司薫
サマー/タイム/トラベラー  新城カズマ
小さな町の風景  杉みき子
風の盆恋歌  髙橋治
タイム・リープ  高畑京一郎
自転車少年記  竹内真
ハゲデブ殺人事件  つかこうへい
〈スワロウテイル〉シリーズ  籘真千歳
檸檬のころ  豊島ミホ
夜の朝顔  豊島ミホ
同級生  富島健夫
慟哭  貫井徳郎
プリズム  貫井徳郎
南極点のピアピア動画  野尻抱介
〈文学少女〉シリーズ  野村美月
〈ヒカルが地球にいたころ……〉シリーズ  野村美月
いつかのきみへ  橋本紡
ぼくと、ぼくらの夏  樋口有介
ジェリー・フィッシュ  雛倉さりえ
なぎさボーイ  氷室冴子
多恵子ガール  氷室冴子
なんて素敵にジャパネスク  氷室冴子
クララ白書  氷室冴子
アグネス白書  氷室冴子
悪魔のいる天国  星新一
現実入門  穂村弘
龍の子太郎  松谷みよ子
風が強く吹いている  三浦しをん
ビブリア古書堂の事件手帳  三上延
スコーレNo.4  宮下奈都
火車  宮部みゆき
蒲生邸事件  宮部みゆき
ノルウェイの森  村上春樹
ダンス・ダンス・ダンス  村上春樹
国境の南、太陽の西  村上春樹
天使の梯子  村山由佳
海を抱く  村山由佳
夜は短し歩けよ乙女  森見登美彦
有頂天家族  森見登美彦
私にふさわしいホテル  柚木麻子
ポプラの秋  湯本香樹美
陰陽師  夢枕獏
〈サイコダイバー〉シリーズ  夢枕獏
〈小市民〉シリーズ  米澤穂信
〈古典部〉シリーズ  米澤穂信
犬はどこだ  米澤穂信
儚い羊たちの祝宴  米澤穂信
満願  米澤穂信
白球を叩け!  若桜木 虔
あのころの、  アンソロジー
運命の人はどこですか?  アンソロジー
放課後探偵団  アンソロジー
アルジャーノンに花束を  ダニエル・キース
夏への扉  ロバート・A・ハインライン
十五少年漂流記  ヴェルヌ
海底二万マイル  ヴェルヌ

「私の男」

7月1日横浜ブルク13にて観賞。
なお、この記事は映画・小説ともにネタバレを含みますので、未見・未読の方はご注意下さい。
公式ホームページは、こちら
モスクワ国際映画祭で最優秀作品賞・最優秀男優賞を受賞というニュースが流れた直後でしたので、観客の数は多く、平日の昼間であるにも関わらず80人ほどの観客がいました。ざっと見た所、年齢層も性別もまちまち。ただ、エンドロールが流れている時に席を立つ人が多かった(最近の映画館では珍しい光景だと思います)ので、ふだんあまり映画を見てない層が見に来ていたのかな、とは感じました。
なお、桜庭さんの小説は「GOSICK」「赤朽葉家の伝説」「青年のための読書クラブ」「荒野」などは読んでいますが、映画を見た時点では原作は未読でした。
「映画を見た時点では」と断りを入れたのは、映画のラスト近くの流れがどうも理解しきれなかったので、すぐに原作を購入して補完したからで、これを書いている時点では原作を読了しております。

物語の序章は北海道南西沖地震のシーンから始まります。まだ幼かった花の視点で映像が作られており、何が起きているのかよくわかっていない花の心理を反映するかのような、淡々とした俯瞰的ではない映像の中に、そこで起きている冷徹な事実が浮かび上がってくる画面構成になっていました。モノローグがあるわけでも、説明的な描写があるわけでもないのに花の孤独と不安とが伝わってくるような映像で、序盤にも関わらず「この映画は見に来て良かったな」という感想を抱いたくらいです。

場面が変わり、中学生になった花と養父の淳吾が暮らす紋別の様子が描かれます。この場面では、淳吾の恋人である小町の視点からの映像が多いな、と感じていました。
一見微笑ましく見える花と淳吾の親子関係の中に不穏なものを感じる小町の視点を通して、見ている側も「隠された秘密の不穏さ」を共有できた感じです。

花が高校生になった場面では、いよいよそれまで隠されてきた花と淳吾の関係があからさまに描かれます。隠されてきたといっても、これまでにそれを匂わせる場面が描かれてきたので唐突さは感じられず、その辺りの流れは良かったと思います。原作では淳吾の側にも花を求める理由が描かれていますが、映画では花が淳吾を求める心情の方に描写を絞っており、その象徴として「血」や「指」を使っている(この後の場面でも)のも効果的だと感じました。
映像の「質」としては、この辺りから微妙に変わってきており、個人の視点を感じさせる映像よりも第三者的な視点の映像が多くなってきた感はありました。ただし、この後の場面でも要所要所で「個人視点的描写」は使われており、個人的にはそういうカットの方が好きです。

二人の秘めた関係と、それを知ったために殺されてしまった二人の人間。それが語られる辺りから、二人の関係の閉鎖性やいびつさを暗示する描写が多くなっていきます。二人の抱える「秘密」が増え、それが二人にとっても「罪」と感じられることであるのですから当然といえば当然です。「他人には理解されないけれども二人の中では共有されている幸せな世界」からの変化が、二人の暮らす部屋の描写や、淳吾の言動に表れてきます。
最初に「映画のラスト近くの流れがどうも理解しきれなかった」と書きましたが、その一つをこの辺りから感じ始めました。花が東京で就職するのですが、その就職先での服装を見ると彼女のつらい「現実」とは大きなギャップがあるのです。何となく「逃れたい」と「離れられない」の狭間にあるためのギャップなのだろうなとは思ったのですが、なぜ逃れたいのか、なぜ離れられないのかという部分がうまく想像できなかったのです。
ちなみに、原作小説を読んでみると、その辺りの花の心情は実に見事に表現されていて、とても共感できたのですが。

ちなみに、淳吾の方は「離れられない」の比率が非常に高く、さらに原作小説と読み比べて、映画では意識的にその比率が高くされていることがわかりました。
花に好意を持った青年が花を自宅まで送ってくるシーンがあるのですが、そのシーンは小説と映画では大きく異なっています。
映画では、淳吾が花への執着を露わにし、青年が二度と二人の世界に関わりを持とうとは思わなくなるような行動に出ます。従って、映画では最後に花が結婚するのは別の青年になっています。
小説では、淳吾の方も「離れなければならない」という意識を持っており、青年にそれを託そうという意識が見えます。
ですから、映画の方では花も最後には淳吾に対して迷いながらも「決別しなければ」という意識の方が強い様子であるのに対して、小説では最後まで二つの気持ちの間で揺れ動いているのです。

個人的には、映画の方は淳吾の「囚われ方」を強調して描いたために、ラストのバランスを崩し過ぎた感があります。もし、そのような描き方をするのであれば、彼の「囚われ方」が最も強かった先述のシーン(花を送ってきた青年のシーン)辺りで止めておいて、「この先この二人はどうなってしまうのだろうか」と見ている側に想像させるエンディングで良かったのではないかと思うのですが…。

ラストの部分では映画に対する不満を書いてしまいましたが、これまで書いたように前半部の映像は非常に魅力的でしたし、もう一つ、音の生々しさという点も良かったことを付け加えておきます。北の海の波の激しさや、流氷のきしむ音、二人の暮らす安アパートに響く電車の通過音。それに、ちょっと書きにくいですが淳吾と小町、淳吾と花の絡み合うシーンの音の生々しさ。
精神的な欠落を肉体的な感覚で補おうとする側面のあるストーリーにおいて、五感に訴えかけることは非常に重要です。「視覚」「聴覚」の刺激という点では、この映画は大いに成功しているのではないかと、そう感じました。

「青春離婚」

4061388940 青春離婚 (星海社FICTIONS)
紅玉 いづき HERO
講談社  2014-06-13

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紅玉いづきさんの「青春離婚」、読み終わりました。
以前ツイッターで紹介されて漫画版の方は読んでいたのですが、小説の方は未読でした。
今回出版された単行本には三編の中編小説が収められているのですが、一編目の「青春離婚」はカレンダー小説という企画で書かれたもので、アンソロジーに収録されたものの改稿版です。
三作は同じ高校が舞台になっており、登場人物も描かれている時系列も重なります。表題作や漫画版が好きな方には、倍楽しめる作品になっているのではないでしょうか。

三作は、いずれもネットを介した人のつながりがモチーフになっています。ネットの世界では、他人の言葉を受け流すことがリアルな世界よりも容易ですし、自分で言葉を発する場合にも、本音を隠してセルフイメージを演出することも可能です。そのため、リアルでは言えないことを、気楽に言えてしまう部分もあるでしょう。だから言葉が軽いかというとそうでもなくて、むしろ、心の奥底に隠している本音を、思わず吐露してしまいやすい場所であるとも言えます。
第一話「青春離婚」ではスケジュールアプリが、第二話「非公式恋愛」ではツイッターのbotが登場します。いずれも「中の人」が気配を消し、プログラミングで動くことが想定されているシステムです。しかし、そのシステムを作り上げていく中で、躊躇やらぬか喜びやら後悔やら承認欲求やらの色々な感情が芽生え、中の人の本音が、つい、こぼれてしまうわけです。
短い一言ですが、様々な葛藤の結果の一言ですから、重みがあります。
そして、その重みが伝わったと感じられる瞬間は、とても素敵なものです。
第三話「家族レシピ」は、オンラインゲームと料理がモチーフです。「青春離婚」にもそのような要素があるのですが、ネット上のやりとりよりも、一緒にコンテンツを作り上げる共同作業が、人と人とをつないでゆくお話です。
このお話のラストで交わされる真啓と灯馬の会話は、この三編のよい締めだなぁと思いつつ読んでおりました。

東京創元社2014年新刊ラインアップ説明会 Part1

3月18日に神楽坂の東京出版クラブで開催された「東京創元社2014年新刊ラインアップ説明会」に出席してきました。
この会は、主に報道関係や書店さん向けのものなのですが、読者の参加も受け付けており、抽選で選ばれる30名の中に、幸運にも入ることができたのです。

東京創元社がこのような説明会を開催するのは初とのことで、創立60周年を迎え、さらに存在感を高めようとする姿勢をひしひしと感じました。
司会は、声優でありエッセイストでもある池澤春菜さん。池澤夏樹さんの娘さんです。

紹介したい内容はたくさんあるのですが、明日も朝が早いので、まずは1点。
僕の大好きなミステリ作家の米澤穂信さんの新作が、この会で紹介されることになっていました。
ツイッターの僕のフォロワーさんにも米澤さんのファンの方はたくさんいらっしゃるので、この会の開催が発表されてからというもの、一体どのシリーズが本になるのか、予想(妄想?)が盛り上がっていました。
というわけで、まずはその話から。

会場に入る際に配付されたラインナップの資料には、米澤先生のところだけ「タイトル未定」で内容紹介もなし。会の中で発表するインパクトを高めたかったのではないかと思います。
会が始まって30分ほど。国内ミステリ紹介の最後に米澤先生が登場。スーツに臙脂色のネクタイというお姿でした。座席は用意してあったのですが、立ったままでお話をされました。
注目の新刊の内容は「さよなら妖精の続編」。作品の刊行から10年ということで、作中の時間も10年進んでいるとのこと。
司会の池澤さんとのやり取りで、進行状況は「鋭意制作中」で、刊行時期は「なんとか年内には」とのこと。
「聞こえてますか?」とマイクの状態を確認されながら、お話は続きます。
「太刀洗万智(さよなら妖精の登場人物の一人)が10年を経て、自分の仕事と向きあわなければならない」
「虎、銃、カメラが登場する」
そして、最後に(別の出版社からですが)明日、明後日あたりに書店に並ぶ予定の「満願」をよろしくというお話をされて、会場を後にされました。

この後、SF作品の紹介になったのですが、その中で「言い忘れたので伝言」という形で、仮題が「E85.2」であることも発表されました。紹介された方の説明では「東経85.2度」の意味だということです。

さて、発表会の後には、参加された作家の方々のサイン会が開催されました。
僕は、三人の方それぞれ著作を読んだことがあるので、皆さんからサインをいただき、米澤先生の列は一番混んでいたので、最後に並びました(結果的には僕が最後から二人目でした)。
実は米澤先生には、昨年秋に「文学フリマ」の会場でサインをいただいたことがあり、その時のことをお話したら、覚えて下さっていたようでした。
ちなみにサインをいただいたのは、僕が一番愛している〈小市民〉シリーズの一作目「春期限定いちごタルト事件」です。

ということで、第一弾はここまで。早いうちに続きを垣内のですが…(期待せずに待って下さい)

akiraの100冊

ツイッターのタグで見かけて、面白そうなので、作ってみました。
幼少期に読んだ本から最近読んだ本まで、幅広くまとめてあります。
この企画の元になったと思われる「米澤穂信を作った100冊」(野性時代56号)を見ると、漫画や近代文学も入っているのですが、漫画を入れると100冊では入らないことや、近代文学は版元によって収録されている短編が違ったりするなどの理由で、今回は除いてあります。
漫画版の100冊は、また別の機会に考えてみようかと…。
あと、このリストは時と場合によって変化しますので、おそらく適宜改訂されます。
というわけで、2013年11月版。


ココロ・ファインダ  相沢沙呼
午前零時のサンドリヨン  相沢沙呼
蒼穹の昴  浅田次郎
鉄道員  浅田次郎
サクラの音がきこえる  浅葉なつ
ひとめあなたに…  新井素子
あたしの中の…  新井素子
海の底  有川浩
〈図書館戦争〉シリーズ  有川浩
レインツリーの国  有川浩
魔法使いのハーブティー  有間カオル
あのひとは蜘蛛を潰せない  彩瀬まる
いま、会いにゆきます  市川拓司
恋愛寫眞 もうひとつの物語  市川拓司
狐笛のかなた  上橋菜穂子
聖の青春  大崎善生
クラインの壺  岡嶋二人
博士の愛した数式  小川洋子
東京物語  奥田英朗
夜のピクニック  恩田陸
三月は深き紅の淵を  恩田陸
木曜組曲  恩田陸
天命の標  小川一水
さがしもの  角田光代
魔女の宅急便  角野栄子
ななつのこ  加納朋子
翼はいつまでも  川上健一
復活の日  小松左京
巷説百物語  京極夏彦
〈京極堂〉シリーズ  京極夏彦
邪馬台国はどこですか?  鯨統一郎
一九三四年冬―乱歩  久世光彦
ヘッドフォン・ララバイ  窪田燎
ふがいない僕は空を見た  窪美澄
〈グイン・サーガ〉シリーズ  栗本薫
〈魔界水滸伝〉シリーズ  栗本薫
優しい密室  栗本薫
仮面舞踏会  栗本薫
心中天浦島  栗本薫
赤朽葉家の伝説  桜庭一樹
青年のための読書クラブ  桜庭一樹
一瞬の風になれ  佐藤多佳子
グローイング・ダウン  清水義範
開国ニッポン  清水義範
日本文学全集  清水義範
赤頭巾ちゃん気をつけて  庄司薫
サマー/タイム/トラベラー  新城カズマ
小さな町の風景  杉みき子
風の盆恋歌  髙橋治
タイム・リープ  高畑京一郎
自転車少年記  竹内真
ハゲデブ殺人事件  つかこうへい
スワロウテイル人工少女販売処  籘真千歳
檸檬のころ  豊島ミホ
夜の朝顔  豊島ミホ
同級生  富島健夫
慟哭  貫井徳郎
プリズム  貫井徳郎
南極点のピアピア動画  野尻抱介
〈文学少女〉シリーズ  野村美月
〈ヒカルが地球にいたころ……〉シリーズ  野村美月
いつかのきみへ  橋本紡
ぼくと、ぼくらの夏  樋口有介
ジェリー・フィッシュ  雛倉さりえ
なぎさボーイ  氷室冴子
多恵子ガール  氷室冴子
なんて素敵にジャパネスク  氷室冴子
クララ白書  氷室冴子
アグネス白書  氷室冴子
悪魔のいる天国  星新一
現実入門  穂村弘
龍の子太郎  松谷みよ子
風が強く吹いている  三浦しをん
ビブリア古書堂の事件手帳  三上延
スコーレNo.4  宮下奈都
火車  宮部みゆき
蒲生邸事件  宮部みゆき
時刻表2万キロ  宮脇俊三
ノルウェイの森  村上春樹
ダンス・ダンス・ダンス  村上春樹
国境の南、太陽の西  村上春樹
天使の梯子  村山由佳
海を抱く  村山由佳
夜は短し歩けよ乙女  森見登美彦
有頂天家族  森見登美彦
私にふさわしいホテル  柚木麻子
ポプラの秋  湯本香樹美
陰陽師  夢枕獏
〈小市民〉シリーズ  米澤穂信
〈古典部〉シリーズ  米澤穂信
犬はどこだ  米澤穂信
白球を叩け!  若桜木 虔
あのころの、  アンソロジー
運命の人はどこですか?  アンソロジー
放課後探偵団  アンソロジー
アルジャーノンに花束を  ダニエル・キース
宇宙戦争  H・G・ウエルズ
夏への扉  ロバート・A・ハインライン
十五少年漂流記  ヴェルヌ
海底二万マイル  ヴェルヌ

映画「ジェリー・フィッシュ」

4103342110 ジェリー・フィッシュ
雛倉 さりえ
新潮社  2013-06-21

by G-Tools

映画「ジェリー・フィッシュ」シネマート六本木にて初日舞台挨拶の回を見ました。
映画の公式サイトはこちらです。
ここ数年R-18文学賞出身の方の小説にかなり傾倒しており、その関係から、原作は発売日に購入して読んでおりました。
その時の感想がこちら
今回、映画を見た時に感じたのは、小説を読んで僕が持っていたイメージと、映画に描かれたものがかなり違うな、ということです。
「イメージと違う」=「嫌い」と片付けるのは簡単ですが、そういうことではなく、なぜそのような違いがあるのかを考えた時に、かえって自分が小説で感じたものを、よりよく理解できたような気がしましたし、それだけ違いを感じ取れるということは、映画がそれだけの世界観を作り上げているということでもあります。
その辺りことを整理しておきたい気持ちが非常に強く、映画を見て帰宅してすぐ、このような記事を書いている次第です。
なお、この記事の内容には、小説・映画双方のネタバレを含みますので、ご注意下さい。また、作品の性質上「性的な話題」にもかなり触れますので、その方面の話題が苦手な方にもお薦めいたしません。映画と同様にR-18でお願いします。


さて、映画を見始めてすぐに感じたのは、僕が原作に感じた「閉じた世界」のイメージがあまり漂ってこないな、ということです。
見始めてしばらく経った時に思い着いた、その理由の一つは、語り手の視線です。
短篇「ジェリー・フィッシュ」(単行本第一章)の語り手は、宮下夕紀です。夕紀の一人称であるために、夕紀がどのように世界を感じているのかが表現されており、その世界観の中に叶子が存在しています。
小説では、夕紀の世界観について、次のような記述があります。
「他人なんてどうでもいい。音楽、写真、絵画、本。わたしは自分の世界を持っている。美しいもの、きれいなものばかりを集めた、わたしだけのひそやかな世界を」
そして、叶子についても
「叶子はすでに、わたしの世界の一部となっている。健気でうつくしい、愛すべきもの」
と書かれています。
一方、映画では、叶子の視点がかなり入ってきます。いや、むしろ叶子の側から夕紀にアプローチをかけ、夕紀が受け身的に二人の世界に引きずりこまれているような描写になっているため、叶子視点の方が多いと言ってよいくらいです。
最初のうち、夕紀は叶子のアプローチに対しておよび腰な気配すらあります。水族館で手をつなぐシーンや、その後学校で「一緒に帰ろう」と誘われるシーンでも。「寝癖ついているよ」という言葉を叶子がどう言うかも、それに対する夕紀の反応も、小説と映画では全く違っていると言ってもよいでしょう。
小説では、二人の関係は、夕紀にとっての「理想的な閉じた世界」であるのに対して、映画版では、叶子に誘われて入りこむ「異世界」なわけです。
夕紀にとって叶子が「異世界」なのだということは、二人の住んでいる場所に「丘の上の高級住宅地」と「工場や商店の多い下町」という異なった設定をしたことでも感じました。


そして、次に気になったのが、二人の少女に付加されたエキセントリックな設定です。
夕紀は、アダルトビデオをレンタルして鑑賞していたことをきっかけに店長と不倫関係となるものの、すでにそれに興味を失っている、という設定。叶子は、中学時代に先輩と肉体関係を持ち、堕胎の経験がある、という設定。いずれも、小説にはない設定です。
映画の二人には、男性との関係に倦んでいるという要素が見られます。つまり、二人が同性愛的関係に陥る理由として、男性的からの欲望に応えることでは、自分たちは幸せになれない、という要素が組み込まれているということです。
これは、夕紀が関係を持ったレンタルビデオ店の店長の見当違いの自説披露や、彼女が店をやめる時のごたごたにも表れていますし、夕紀にストーカーまがいのことをする謎のおじさんの無気味さにも表れているでしょう。
同じことは、叶子とその恋人である平井裕輔との関係にも言えます。平井裕輔と叶子の関係は、単行本では第二章の「果肉と傷痕」でさらに深く描かれているのですが、映画では全く違う描かれ方になっています。もっとも「果肉と傷痕」は単行本書き下ろしなので、撮影された時期を考えても、映画はそちらを参照せずに撮影されたのでしょうから、そういう意味では、仕方ないのですが。
映画では、裕輔は叶子と肉体関係を持つことに積極的で、最初に彼女の部屋にいった時にはポケットにコンドームをしのばせています。行為に及ぶ際の性急さや叶子への体位の要求など、男性的リビドーの象徴みたいなものです。それに対する叶子の冷めた表情との対比があるのですから、その狙いは明らかです。
「果肉と傷痕」では、むしろ裕輔の優しさに対して貪欲さを要求するのが叶子の側ですから、裕輔の位置づけは真逆です。裕輔と別れる理由についても同様。


第三の要素は「同性愛」についての描き方です。
これは、最初の項目でも触れたのですが、二人の閉じた世界が、二人にとって幸せな空間なのかというと、そうでない描かれ方をされているということも含みます。
周囲からの視線という意味では、バス停でのキスをクラスメイトに目撃されるシーンとか、裕輔に「気持ち悪いよ」って言われるシーンとかがわかりやすいですね。明らかに同性愛への嫌悪が描かれており、映画としては、それを二人と敵対する側に置くことで糾弾しようという要素があるのでしょう。
二人の側の問題としては、最後に二人で「エッチ」しようとするシーンが象徴的です。なぜその行為が途中で終わってしまうのかという理由が、映画と小説では全然違うわけです。
映画では、二人の肉体的な結びつきは、夕紀をつなぎとめておくためのものであり、叶子にとっては「自ら望んだものではない」ことになっています。これは、映画のラストに叶子が男性と結婚したと思われるエピソードを入れている点からも補足できます。
しかし、小説では「ほんとうは怖かったのだ、わたしも叶子も」「結局わたしたちは、非日常にはなりきれないのだ。どこまでも平凡な、ありきたりな少女たち」と記述されています。
つまり至高の世界はそこにあるのだけれど、勇気がなくてそこに飛び込んでいけない、という流れです。これは、単行本「ジェリー・フィッシュ」では繰り返されるモチーフで、第二章「果肉と傷痕」では、夕紀との至高の体験を忘れられない叶子が、裕輔に過激な行為を要求して、結果、その非日常性を怖れた裕輔との別れを迎えることになります。しかし、第四章「エフェメラ」において、裕輔は実姉への思慕を行動で表現することができずに苦しみながら、叶子と共に「日常」を越えられなかった自分を情けなく思う、という場面が描かれます。


そして、最後に、この小説中で最もエキセントリックな場面であると思われ、小説の帯にも使われている、お互いの首を絞める場面。
映画では、まだ二人の中がそれほど進展していない場面で登場します。叶子が、より大きな快感を得ることで、二人の仲を特別なものにしたい、というつもりで提案した雰囲気です。
しかし、小説でこの場面が登場するのは「一度目のキスはわたしたちの原点で、二度目のキスはわたしたちの頂点だった。あとに残されたのはゆるやかな坂道だけ」というフレーズの後です。
死というのは、そこで時を止めてしまうことなので、幸せの絶頂で死ねるのは、ある意味とても幸せなことです。
そして、その幸せをもたらしてくれるのが、自分の好きな相手であるのなら、それはさらに幸せなことになるでしょう。
首締めは、幸せの瞬間を永遠のものにする手段でもあるのです。
そして、もう一つ。「最後に、叶子に傷をつけたかった。かたちにのこるものじゃなくてもいい。いつか、彼女が忘れてしまってもいい。わたしの手で、叶子のからだに何かを刻みつけることができたら」という夕紀の台詞。
この前に入れ墨の話が出てきて、そこでも痛みと記憶の結びつきが述べられています。
痛みもやはり、「今この時」を永遠するための手段となるわけです。
お互いの首を絞めるという行為に、永遠化という意味があるからこそ、最後に二人の関係が壊れてしまう時「やっぱりあのときふたりで死んじゃえばよかったね」という台詞になるのではないでしょうか。


さて、一方的に、映画と小説を対比して小説の肩を持ってしまいましたが、冒頭にも書いたように、ここまで自分の意識を表面化させてくれた映画に対して、僕は「嫌い」という感情を持つことはできません。制作した側にとって有り難いかどうかはわかりませんが(笑)


そもそも「ジェリー・フィッシュ」という小説は、18歳という非常に若い作家のデビュー作ですし、映画「ジェリー・フィッシュ」の主演のお二人も、宮下夕紀役の大谷澪さんは映画初主演、篠原叶子役の花井瑠美さんは映画初主演。僕が映画の演出意図を理解できるだけの素晴らしい演技をしてくれたことは確かですし、トークショーでは新しい世界の入り口に立つ喜びと気概が伝わってくるよいコメントをしてくれました。


そういう意味では「小説に比べて映画は……」ではなく、映画も小説も、もっともっとたくさんの人の目に留まるようになって欲しいなと思います。
そして、感じたことをたくさん語って欲しいですね。


ちなみに、映画の映像はかなり「刺激的」です。自分が20代の頃だったら、映画館で見るのは無理だったかもしれないくらい。そういう方向でばかり話題になるのは嫌な気もしますが、なんとなく、書いておいた方が正直なような気もするので、書き添えておきます(笑)

「氷菓」 遠まわりする雛

今日は2013年4月3日、アニメ版「氷菓」の設定では水梨神社で「生き雛祭」が開催されている日です。実は、現実の2013年の「生きびな祭」はアニメ「氷菓」とのコラボ企画が実現し、様々なイベントが行われることになりました。僕も、今日、そのお祭りに参加してきました。これぞ、延ばし延ばしになっていた、「氷菓」第22話の感想を書くよいきっかけ、とばかりに、この記事は高山のホテルの一室で書いています。

さて、これは「クドリャフカ編」に入って以降、何度も書いたような気がしますが、アニメは小説に比べると時間的な制約が大きく、色々な意味で描写の不足が目についてしまいます。
例えば、冒頭の奉太郎とえるの会話。「最初から話してくれ」という奉太郎に「発端は戦後間もないころなんですが」と話し出すところや、奉太郎が一度「あまり気は進まんな」と断るところ、生き雛祭がそれなりに有名なお祭りであるという話などは、省略されています。
里志が補習で遅刻しそうになるところや、カメラを用意して写真を撮る話などもありませんでした。
どれもストーリー進行には関係ないとはいえ、人物の性格を示す肉付け的な描写です。

また、園さんの喪中の話は、地域の話を奉太郎が知らないという疎外感を演出するとともに、推理の選択肢を一つ増やす(ということは難度が上がる)役目を果たしていました。地元の人たちがより具体的に描写されるという点では、終盤のえると奉太郎の会話もそうです。
他にも色々あるのですが、キリがなくなるのでこの辺にしておきますが、この辺りの描写の積み重ねが、えるが最後に言う「小さな世界」や「千反田の娘」という言葉に説得力が出てくるわけで、そういう意味では、アニメを見ていて「水と土しかありません」という寂寥感があまりないな、と思っていました。

ここまでは、アニメの欠点ばかりを書いてきましたが、もちろん良い点もあります。
一つは、狂い咲きの桜の描写の素晴らしさ。小説を読んだ時の僕のイメージは、もっと小さな桜だったのですが、飛騨一ノ宮にある有名な桜の木をモデルにしたことで「高山」という現実の場所と「氷菓」というアニメの世界の距離が、一層近くなったと思っています。
また、最後の場面を千反田家から桜の前にしたことで、画面に動きと美しさが加わったことは、言うまでもありません。

そして、小説にはなかったオリジナルの要素が二点。
まず、祭りの終わった後、摩耶化が奉太郎にバレンタインの件でお礼を言うシーン。あのシーン、僕は奉太郎と摩耶化の関係というよりは、里志と摩耶化の関係を示唆するシーンだと思っています。摩耶化が里志との関係を「ぼちぼち」といい、奉太郎のしたことを里志の口から聞かされていた点といい、「二人の距離の概算」を先取りする意味があったのではないでしょうか(下手をすると概算の描写よりも意味が深いという気までします)。
二つ目は、入須先輩と奉太郎との会話。「愚者のエンドロール」の時にも書きましたが、僕は、もともと入須性善説です。入須は奉太郎の能力を買っていたからこそ利用したわけで、自分の都合で相手に頼ったことを潔しとしない考えが、自己罰的な物言いになったのではないかと思っているのです。ですから、あの入須先輩の描写は、僕の中では、自分が思っていたことをうまく補完してもらったようで、嬉しかったです。

というわけで、「氷菓」の感想は、これで一段落。
といっても、小説は古典部の諸君が卒業するまで続くらしいですし、高山は「氷菓」アニメ化の前から好きな場所でしたから、これからも度々訪ねることになるでしょう。
「生涯忘れることのできない作品」の一つであることは、間違いありません。

アニメ「氷菓」ブログリスト

とある事情から、アニメ「氷菓」関連のブログを集めてみました。
原作との設定・演出上の違いを分析した記事を中心に、
独自の考察や分析のあるブログをまとめています。
検索をかけてみると、キャプチャ画像を貼って粗筋を紹介する形の記事が非常に多いのに気づきましたが、そういった系統のブログは外してあります。
※【  】内はtwitterのアカウントです。

■忘れられた庭の静かな片隅-Forsaken Gardens-/los_endos【@los_endos_】
舞台探訪記事の充実度が素晴らしいブログ
http://d.hatena.ne.jp/los_endos/20130203/1359891678
一橋大学学園祭での米澤穂信先生の講演記事もあります
http://d.hatena.ne.jp/los_endos/20121107/1352292298
「愚者のエンドロール」のミステリ要素を掘り下げた記事
http://d.hatena.ne.jp/los_endos/20120624/1340549599

■あまたのヒカリ/ハルカミチ【@harukamichi】
全話感想
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■ジャスタウェイの日記☆/ジャスタウェイ
全話感想+原作との比較
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■甲羅干し/みとっち【@criostat8】
全話感想+考察
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■忙しなく暇つぶし/わぐ【@Dichter_wag】
全話感想
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■見上げれば、空/tohka383
アニメと原作の時系列の違いをまとめた資料
http://d.hatena.ne.jp/tohka383/searchdiary?word=*[novels]

■Daydream Holic Night/西瓜(スイカ)
クドリャフカの順番をメインにした多重視点の話
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■長文スペース/土塊【@dokai3】
第2話における演出における奉太郎の自意識の問題
http://d.hatena.ne.jp/dokai3/20120512

■サブカル・カムカム/かもめ【@kamomesu】
第1話~第3話の感想
http://subcul.livedoor.biz/archives/cat_50054738.html

■白の鈴/すぃーく【@seekWB】
第18話感想
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